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紫野周辺の史跡を訪ねて

紫野は京の七野の一つで、桓武天皇が平安遷都翌年に紫野に遊猟したとか。賀茂社斎王の御所である斎院が置かれ、今宮神社、雲林院、梶井宮御所の地には、鎌倉時代末期に大徳寺が開かれた。


  千本閻魔堂

真言宗。高さ 2.4m閻魔王坐像が本尊。現生と冥途の往来伝承を持つ小野篁の開基。化野、鳥辺野と並ぶ埋葬地である蓮台野の入口にあたり8月のお精霊迎えで知られる。
2月の節分会のこんにゃく煮き、5月の千本ゑんま堂狂言などの行事がある。
境内には、紫式部の供養塔や、八重桜でめしべが長い普賢象桜がある。


  上品蓮台寺

◆蓮台野(れんだいの)
船岡山から紙屋川に至る一帯の野である。古くから東の鳥辺野・西の化野とともに葬地として知られ、平家物語巻
1に「香隆寺(こうりゅうじ)のうしとら(丑寅:北東)に蓮台野とある。
◆上品蓮台寺
真言宗智山派の寺院。山号は蓮華金宝山。院号は九品三昧院。本尊は地蔵菩薩。
開基は聖徳太子(574622)と伝えられているが、実質的な開基は寛空(かんくう882-970)である。寛空は宇多法皇の弟子にあたり、宇多法皇から灌頂を受けている。中世には衰えたが紀州根来寺の性盛(しょうせい:15371609)が文禄年間(1592 - 1596年)に、復興し、以後真言宗智山派に属した。
現在の境内は千本通りの西に位置するが、かつては千本通りを挟んで塔頭が12院あったことから、「十二坊」と称され、それが現在の町名「紫野十二坊町」の由来となっている。現在の塔頭は真言院・宝泉院・大慈院の三院である。
境内には平安時代の仏師、定朝(じょうちょう:?-1057:平等院阿弥陀如来坐像の作者)の墓や室町時代の彫金師後藤祐乗(ごとうゆうじょう:14341512)以下の後藤家の墓が塔頭大慈院にある。
当寺所蔵の「絵因果経」は国宝として著名である。



  近衛天皇火葬塚

火葬塚とは火葬場所として設けた施設である。火葬骨を納める火葬墓とは性格を異にする。日本の古代から中世において、火葬場所を火葬塚とし、遺骨を別の墳墓に納める方式は格式の高い葬法であり、公式にこれを行えるのは天皇とその近親者に限られていた。
近衛天皇(
1139-1155;在位1141-1155)は第76代天皇。鳥羽天皇の第九皇子。親王名は体仁(なりひと)。母は美福門院(藤原得子)。
鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位させて幼帝をたて、院政を行った。近衛天皇の早世は保元の乱の遠因とされている。 御陵は伏見区武田内畑町の安楽寿院南陵。


  後冷泉天皇火葬塚

後冷泉天皇(1025-1068:在位1045-1068)は第70代天皇。後朱雀天皇の第一皇子。親王名は親仁(ちかひと)。母は藤原嬉子(藤原道長の娘)
藤原頼通(
990-1074)が摂政となり(摂政就任は1017年、後一条・後朱雀・後冷泉天皇の三代にわたり約50年間摂政の職を務める)摂関政治が全盛を極めた時代の天皇である。1052(天喜元)年、平等院鳳凰堂が完成した際、後冷泉天皇は藤原頼通に「名は君臣なれど義は父子の如し」という勅語を賜ったと伝えられている。
御陵は右京区竜安寺朱山の円教寺陵。


  孤蓬庵

大徳寺の塔頭だが境内から離れた西方に位置する。1612(慶長17)年、小堀遠州(こぼりえんしゅう:1579-1647)が龍光院内に小庵を建て、1643(寛永20)年に現在地に移建。開山は江月宗玩(こうげつそうがん:1574-1643)。1793(寛永5)年に焼失したが、松平不昧(まつだいらふまい:1751-1818:まつだいらはるさと:松江藩第7代藩主:不昧は号)の資助で再興された。
本堂・書院および茶室忘筌(ぼうせん)は重要文化財。庭園(国の史跡・名勝)は本堂前庭、忘筌前庭、書院前庭、山雲床(さんうんじょう:書院西端にある茶室)前庭からなる。

寺宝として国宝の井戸茶碗(銘喜左衛門)を所蔵。


  今宮神社

 祭神は大弓貴命(おおなむちのみこと)・事大主命(ことしぬしのみこと)・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)。
平安遷都以前から疫神を祭る社があったと伝えられ、
994(正暦5)年、疫病が流行し一条天皇は船岡山に神輿(みこし)二基を安置し、疫病退散の御霊会(ごりょうえ)を行ったと伝えられている。7年後の1001(長保3)年、再び洛中は疫病の流行に見舞われることになり、そのとき、船岡山の北、紫野の地に疫神を祀り、「神殿三宇」を建てた。これが現在の今宮神社のそもそものはじまりとされている。
やすらい祭
太秦の牛祭(現在は行われていない)、鞍馬の火祭とともに、京都市の三大奇祭の一つとして無形文化財に指定されている。社伝によれば、陰暦の三月、桜の花が散り始める頃に疫病が流行するというので、花の霊を鎮めるためにおこなわれたのが始まりとされている。古い記録によれば、平安時代の末期の
1154(久寿元)年、京中の人々が鼓(つづみ)や笛ではやしたて、夜須礼(やすらい)と号して紫野社に参詣したことが記されている。今も白小袖(しろこそで)に緋縮緬(ひじりめん)の打掛(うちかけ)をまとい、赤熊(しゃくま)をつけて太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らしながら踊る姿を。四月の第二日曜日に見ることができる。この時には、桜や椿の花々できれいに飾った風流傘も参加し、この下に入ると、その一年間は無病息災と伝承されている。
阿保賢(あほかし)さん・神占石(かみうちいし)・重軽石(おもかるいし)
境内にある石で、病弱な人が石を軽く撫でてから。自分の身体の悪いところを摩れば健康の回復が早まるという。また重軽石とも呼ばれ、石をてのひらで軽く三度たたいて持ち上げた後、願い事を込めて手のひらで三度なでて持ち上げてみて、軽くなっていれば、願い事が成就すると伝えられている。
◆今宮祭55日・16日に近い日曜日に神幸祭・還幸祭がある。
あぶり餅
今宮神社の東門前に「一文字屋和輔(通称一和)」「かがりや」の店がある。両店ともあぶり餅を販売している。指先でちぎった餅を竹串に刺し、炭火であぶって味噌をつけた餅があぶり餅である。なお、この両店の前の道は、ドラマのロケによく使用されている。


  郁芳門院火葬塚

白河天皇の第一皇女。内親王名は媞子(ていし)。生母は白河天皇の中宮藤原賢子(ふじわらのけんし)。伊勢斎宮在任期間(1078-1084『中右記(ちゅうゆうき:平安時代後期の公家、中御門宗忠の日記)に「容姿麗しく優美であり、施しを好む寛容な心優しい女性であった」と記されている。白河上皇は行幸の際には必ず媞子内親王と同車し、病弱な内親王のためにしばしば寺社に参籠した。
しかし、内親王は
21祭の若さで早世し、最愛の皇女を亡くした白河上皇は悲嘆のあまり2日後に出家した。


  船岡山

 標高約112m。山名が山の形が船を伏せた形に似ていることかに由来するとされているが、現在の船岡山をみると特に船ににているとは思わない。平安京の玄武に擬され造営の帰順にされたと言われている。
平安時代には景勝地・遊行地となり、その後は葬送地となり、「平家物語」や「徒然草」にも記されている。さらに戦略的要衝として戦場となり、応仁・文明の乱(
1467-1477)では、西軍山名氏が城砦を築いた。
◆船岡山の成因とチャート岩盤
船岡山は左大文字から続く尾根の一部だったが、紙屋川によって削られて切り離された。

放散虫(ほうさんちゅう:主として海のプランクトンとして出現する単細胞生物)などのプランクトンが海底に堆積したチャートと呼ばれる硬くて緻密な堆積岩が隆起した岩盤でできており、所々に地層の傾斜や褶曲が見られる。通常こういった巨石は神が降臨した「磐座(いわくら)」といわれ、御神体化されることが多いが磐座に特有の地上に置かれた岩ではなく岩盤が露出したものだったせいか、明治初期に建勲神社が創設されるまで船岡山の露岩が信仰の対象となって神社が置かれたとか祭祀が行われたという具体的な記録はない。

◆ラジオ塔
放送事業者がラジオの普及を目的に、公衆にラジオ放送を聞かせるため、公園などの公共空間に設置した、ラジオ受信機を内部に治めた塔である。

日本でラジオ放送が開始されたのは
1925(大正14)年で、昭和初期には多くの地方局が開局して聴取可能地域が拡大していった。しかし、ラジオ受信機は高価で一般家庭に普及には至らなかった。日中戦争から太平洋戦争にかけて(1937-1945)政府は国民(当時臣民)に戦況を伝え、戦意を鼓舞する目的から当時全国に450ほどのラジオ塔が建てられた。しかし、現在日本で現存するラジオ塔は28であるとされている。
◆磨崖仏
船岡山の北西中腹に弘法大師爪彫り不動と呼ばれる磨崖仏がある。岩肌がひどく磨滅して像容ははっきりわからないので、不動明王と思われて信仰されてきたが、実際は不動明王ではなく、蓮華座に座る定印を結んだ阿弥陀仏で、室町時代前後の作と考えられている。船岡山の西北に葬送の地蓮台野があり、西方極楽浄土への成仏を願うために造立された石仏と考えられる。
◆堀跡・土塁跡

船岡山は応仁・文明の乱(
1467-1477)では戦場の一つになった。西軍の大内政弘(おおうちまさひろ:1446-1495)・山名教之(やまなのりゆき:?-1473)らが拠点となる船岡山城を築いた。しかし1468年(応仁2年)9月には東軍の細川勝元に攻め落とされたと伝えられている。
また、
1511(永正8)年8月には、船岡山に細川澄元(ほそかわすみもと:1489-1520)と細川政賢(ほそかわまさかた:?-1511)陣取り、丹波方面から入京した足利義尹(あしかがよしただ:1466-1523)後の室町幕府10代将軍足利義稙(あしかがよしたね)細川高国(ほそかわたかくに:1484-1531)大内義興(おおうちよしおき)らの軍を迎え撃ち敗れて逃亡したと伝えれている。
これら応仁・文明の乱、戦いの戦場跡として、船岡山公園には碑が建てられているが、その碑の少し上から城の土塁と堀が残っている。
◆サイレン塔
戦時中は空襲警報を、戦後は時刻を知らせていたのではないだろうか。現在は何も設備は入っていない。空襲警報に使用されていたとしたら、
1945(昭和20)年の116日の「東山空襲(東山区馬町東入付近)」や626日の「西陣空襲」の際に警報が鳴ったかもしれない。


  建勲神社

織田信長・信忠父子を祀る神社。1869(明治2)年建織田社(たけおだのやしろ・たけしおりたいしゃ)の神号宣下があり、翌年出羽天童藩主織田信敏(おだのぶとし:1853-1901:出羽天童藩3代藩主)の東京邸内と山形天童城址に創祀した。
1875(明治8)年、船岡山麓(豊臣秀吉が信長の菩提を弔うために計画していた天正寺の寺地)社地を賜り、1780(明治13)年に東京より遷座した。翌年、織田信忠を合祀し、1910(明治43)年新社殿を造営して船岡山山上に移転した。
1019日の「船岡大祭」は信長の功勲を後世に伝えようとする祭で、毎年、仕舞『敦盛』や舞楽が奉納される。所蔵の太田牛市(おおたぎゅういち:うしかず:ごいち:1527-1613)の自筆本『信長公記』が重要文化財。


  常盤井跡



源義朝(みなもとのよしとも:1123-1160)の愛妾で源義経の母常盤御前(ときわごぜん:生没年不詳)が使ったという井戸という伝承がある




また近くに弁慶腰掛石があり、ここで牛若丸と戦ったとか。北に梶井宮御所があり、この地の小川の橋を御所橋といったそうな。


  雲林院

前身は淳和天皇(じゅんなてんのう:786-840:在位823-833)の離宮紫野院で、869(貞観11)、仁明天皇(にんみょうてんのう:810-850:在位833-850)の息子・常康親王(つねやすしんのう:?-869)が千手観音像を安置し、寺名を雲林院と改めた。
884(願慶8)年、天台宗の道場となり、その後、1326(嘉暦元年)大徳寺が創建されて以降に、大徳寺の境外塔頭となった。
1684(貞享元年)に焼失し、1707(宝永4)年に再建されたが、1797(寛政9)年に客殿・庫裏を大徳寺塔頭の孤篷庵に移し、観音堂のみが現存する。


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