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ウォークの地図

逢坂関から山科奈良街道へ

逢坂峠は東海道の難所、重要な関所でもあり、古より多くの旅人が歌に詠んでおりました。山科に至ると分岐の追分で、東海道で三条へ。また京を通らず伏見、淀、枚方へと西国大名が参勤交代に通った旧道の名残が見られます。活況を呈した街道も通行形態の変遷により賑わいはないものの、往時を偲び歩きましょう。

  逢坂関跡

逢坂関は奈良時代から平安時代に、近江国と山城国の境界に置かれていた関所で、東海道・東山道・北陸道の要所となっていたが、平安京遷都の翌年(795年)には一旦、廃止された。しかし、平安京の東部を固める重要地として、810年以降も逢坂関は、伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関とともに、「三関(さんかん)」として、役割を果たしていた。
また、旅人が利用する休憩所などがあり、多くの文人は、しばしば逢坂関(山)を歌枕にした歌を詠んでいる。

鎌倉時代以降も京都の東の要衝として機能し、南北朝時代以降には、園城寺が支配して、関銭(せきせん)を徴収するようになった。
近世以降は、本格的な道路改良などにより、道が掘り下げられて、古代の関址の特定が困難になった。更級日記石山寺縁起には、現在の大津市逢坂2丁目の長安寺付近にあったとされる関寺(せきでら)と、逢坂関を関連付ける記述が多く見られることなどから、逢坂の関記念公園の位置よりも大津市側ではないかともいわれている。
逢坂山関址の石碑は、1932年(昭和7)に滋賀県が建てている。一方、2005年(平成17)に大津市歴史博物館が発行した「大津 歴史と文化」には、「関跡とする確証はない。」とある。


  うなぎのかねよ

明治5年の創業。江戸時代の末、逢坂山の峠のふもとに、一軒の茶屋があった。店の名は、主人の名前文次郎から一字とって「かね文」。文次郎にはつるという看板娘がいた。またその「かね文」の客で、伊勢から京へ鰻を運ぶ行商人で、米吉という若者がいた。やがて米吉とつるは恋仲となり、祝言を上げるにいたった。その後米吉は谷の水で鰻を生かしておくと臭みが抜けておいしくなることを発見し、明治5年「かね文」の「かね」と「米吉」の「よ」をとって「かねよ」として鰻屋を開店。時は下って大正末から昭和の初め頃、錦糸玉子を鰻丼の上に載せたメニューがあったが、待ちきれない客の要望に応え、細く切っていた玉子を、薄く流して重ねぶつ切りにして丼に載せて出したところ、大変に好評で、やがて店の名物になった。名前は錦糸丼。謳い文句は「日本一の鰻」。鰻は浜松産。
経営者の趣味で、庭にはさねかずらや、大津絵のキャラクター「鬼の念仏」をモチーフにした信楽焼の置物のほか、東海道で使われた車石や閂(かんぬき)の一部、昔多くの小学校の校庭で見られた二宮金次郎の石像などを見ることができる。近代的な建物や、店の上方には「鯉のぼり」ではなく「うなぎのぼり」が泳ぐ。
店は町はずれにあるため経営は不安定だったので、京都市内に進出。結構業績が上がっていたが、市内の店は、戦時中の苦しい時に人手に渡っていた。従って、現在河原町蛸薬師にある「かねよ」は、謳い文句も同じ「日本一の鰻」だが、経営は全く別とのこと。逢坂山の店としては、「逢坂山のかねよ」として周辺の風景とセットで売っていく、とのこと。


  蝉丸神社

蝉丸神社(せみまるじんじゃ)は、滋賀県大津市にある神社である。近くの関蝉丸神社と併せて蝉丸神社と総称される場合もある。 祭神として 蝉丸大神と猿田彦命、豊玉姫命を祀る。蝉丸大神は音曲を始めとする諸芸道の祖神として信仰される。猿田彦は神話にある天孫降臨の時道案内をした神。また豊玉姫命は招福出世、縁結び安産子孫繁栄の神。蝉丸は小倉一首にそのが収録されていることで知られているが、宇多天皇皇子敦実親王雑色光孝天皇の皇子など諸伝があり、その人物像は不詳だが平安時代前期の歌人、音楽家とされる。
目であり琵琶の名手という伝承から、仁明天皇の第四宮人康親王と同一人物という説もある。『平家物語』巻十「海道下り」では、醍醐天皇の第四宮として山科の四宮河原に住んだとあり、平家を語る琵琶法師盲僧琵琶の職祖とされている。後に皇室御物となった琵琶の名器・無名を愛用していたと伝えられる。生没年は不詳であるが、旧暦5月24日およびグレゴリオ暦6月24日が「蝉丸忌」とされている。
今昔物語』によれば逢坂の関に庵をむすび、往来の人を見て「これやこの 行くも帰るもわかれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」の和歌を詠んだという(百人一首では“行くも帰るもわかれては”となっている)。このため、逢坂の関では関の明神として祀られる。


  旧東海道線トンネル碑

明治13年日本の技術者だけで初めて造った旧東海道線逢坂山トンネル (18ヵ月で掘り抜いた)であり、ここはトンネルの西口側。当時のトンネルは名神高速道路建設に当り、この地下18米の位置に埋没している。   逢坂山は滋賀県大津市と京都市山科区の間にあるが、トンネル自体は大津市に位置している。全長664.8m、東海道線大津〜京都間の旧線大津(現在の膳所)〜大谷間にあり、大正10731日まで使用されていた。
先に明治128月、大谷〜京都間が開業する。翌年6月に逢坂山トンネルが開通したので、714日に明治天皇が試乗され、翌日15日より運転が開始された。これは新橋・横浜間の日本初の開通(明治5)から、まだ8年であり、3番目の路線であった。
当初は京都から東山を避けるために大きく南に回り込み(奈良線稲荷駅まで南下)、その後に山科から大津に入るという現在の名神の道路とほぼ同じで、(現・名神)蝉丸トンネルの西口の手前に大谷駅が作られた。大谷駅を出ると直ぐにこのトンネルがあり、トンネルの東口を抜けると膳所駅まで進み、さらにスイッチバックで現在の大津駅に向かっていた。大正10年には東海道線も現在の山科経由のルートに変更されたので、この旧東海道線は廃線となった。
廃線後、名神や国道1号線に再利用され、逢坂山トンネルの西口も名神の蝉丸トンネルの建設の際の土台部分として埋められたらしい。


  月心寺

臨済宗寺院で相阿弥作と云われた庭があり、境内に走井の湧水、最初の湧水は、奥の庭園内にある。周囲には旅人相手の茶店が点在、刀鍛冶の三条小鍛冶宗近がこの湧水で刀剣を鍛えたことから餅の両端が尖って剣難を逃れる走井餅を名物とした。(広重の東海道53次・大津宿に描写)明治43年(1910)石清水八幡宮麓に移転する。
松尾芭蕉の句碑「大津絵の 筆のはじめは 何仏」。
大正5年(1916)日本画家の橋本関雪は、東海道線開通など、時代変遷で寂れたこの地を惜しんで買い取り、後世に残ることとなる。橋本関雪夫妻の墓地。
村瀬明道尼は、交通事故で右手足が不自由となるが、月心寺の庵主となると、走井で作る精進料理の胡麻豆腐で知られ、NHK連ドラ「ほんまもん」のモデル(野際陽子)となった。主役の木葉は池脇千鶴さんでした。地元の方に聞くとお酒が好きな庵主さんだったそうな。


  追分

東海道(京へ)と奈良街道(奈良、大阪)の分れ道。馬子が馬を追い分けたところからきた。
道標 右ハ京みち ひだりハふじミみち 柳緑花紅(柳は緑、花は赤く手を加えないままが美しい。…自然の姿が悟りの境地) 

蓮如上人道標…是より十町(約
1q) 本願寺第八代門主(首)。活発な布教活動で衰退していた浄土真宗を巨大教団へと発展させた。山科に廟所がある。
放光山 閑栖寺…真宗大谷派(東本願寺)室町時代後半に建立。山門上に太鼓楼、門徒や通行人に法要、時刻を知らせた。境内に車石、人馬道を再現し、幅員は旧東海道に同じ。

大津絵の源流…東本願寺の建設により六条界隈の仏絵師が大谷、追分に移転仏画を売出した。
従是西寺門領は三井寺領を示す。江戸期は天領(大津市藤尾)、京都側は皇室領
頌徳碑明治
401907)年山科藤尾筍組合が先人を讃えた碑で左側が筍入札場
芝町遺跡…古代(縄文時代から)の遺物が発見された。古代信仰の磐境(いわくら)と思われる。中世(応仁の乱ころ)は、山科七郷が関所を設けたという。現在は諸羽神社、若宮八幡宮の御旅所

牛尾観音道標…牛尾観音(法厳寺)への道標。清水寺開祖延鎮が建立したと伝えられ、清水寺奥の院とも。


  疏水洛東用水路

山城国宇治郡山科村の東・北に位置する四宮と音羽の地区は、土地が高く古来から、水不足に悩まされていた。
1890年(明治23)に琵琶湖疎水事業が完成して、琵琶湖の水を田畑の灌漑用水に充てたが、地区内には十分に配水することができなかった。
このため、東の藤尾地区などの協力を得て、藤尾を起点とする水路を引くこととして、1892年(明治25)に約1.1kmの「音羽用水路」が完成した。
また、山科村の南に位置する東野・大塚・大宅の地区もこの利便を共有することとなり、1897年頃に、約2.7kmの用水路が完成して、多くの田畑を潤すこととなった。

琵琶湖疎水事業は、琵琶湖の水を工学者・田辺朔郎(1861-1944)の計画のもと,大津の三井寺近くの長等山トンネルをくぐり,山科盆地の北の山沿いを走り、九条山トンネルを経て、京都盆地に配水している。
現在の山科地域は、道路網の整備や宅地化により、田畑の減少が著しいが、琵琶湖疏水から取水している北東部の音羽用水路と、山科の北西部の東山用水路があり、さらに、山科川から取水する上村用水路、四宮川から取水する谷川用水路があった。かっては、農業を中心とした田畑風景が広がる地域であったことがうかがえる。
音羽病院の横を流れる音羽用水路は、後に「洛東用水路」と呼ばれるようになる。
音羽用水路の完成から約10年後に、水路の開通に尽力した人々の功績をたたえる「音羽水路紀功碑」が建立された。現在の紀功碑は、音羽病院敷地内にあるが、元々は,奈良街道と音羽用水路との交差点の南東側に建てられていた。


  若宮八幡宮

創建年代は不詳ながら、天智天皇が志賀の都から山科郷へ巡幸を行った時、音羽の地に八幡神を勧請したのが始まりと伝えられているそうで、当初は仁徳天皇・応神天皇・神功皇后の三柱を祀っていたが、その後素盞鳴命を合祀し、大津皇子の御子である粟津王の末裔とされる粟津氏が、この地を拓いて居住するようにあたり、祖である天武天皇を併せて祀ったそうです。 
境内には大津皇子と粟津王の墓とされる2基の古墳があり、室町初期の宝篋印塔が現存しております。
高さ約2mの花崗岩製の宝篋印塔です。左の方は基礎が欠損していて、別石で補われているため、低く見えます。本来は同じ高さだったようです。向かって右が大津皇子、左が粟津王の供養塔と伝えるものです。粟津王は、大津皇子の王子です。父の謀反、逮捕、処刑に際し、一説に備前に配流となり、のち許されたと伝えられてます。
また、お堂には、「観世音」の扁額が掲げられています。その下に、注連縄が掲げてあります。内部には、十一面千手観音像(平安)を中央に、不動明王・毘沙門天像(鎌倉)が安置されています。神仏習合時代には、神宮寺として観音寺が在ったそうです。昭和42(1967)にこの観音堂が復興されたそうです。神社としては特異な感じがします。


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