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ウォークの地図

明智光秀と坂本城…西近江路を歩く

坂本は、東に琵琶湖、西に比叡山、近江国と越前をむすぶ西近江路(北国街道)、また湖上輸送の終着点である坂本港があり、陸海路の交通の要所で、比叡山延暦寺、日吉大社の門前町として発展し、比叡山僧の里坊が現在の景観を形成しています。

  坂本比叡山駅・日吉茶園

京阪電気鉄道石山坂本線の終着駅。伝教大師最澄が唐の天台山より茶の種子を持ち帰り、805年、比叡山麓の地に植えたとされ、日本最古の茶園と称される。栄西禅師が宋から持ち帰り、明恵上人が植えたとされた高山寺の「栂尾茶園」が日本最古の茶園といわれる380年ほど前の事である。その理由は、当時の記録がほとんど残っていないためであろう。


  生源寺

比叡山生源寺は天台宗の寺院で最澄の生誕地とされる。
かつて坂本には、後漢の皇帝の末裔である、三津首(みつのおびと)の一族が栄えていた。首長である百枝(ももえ)公と藤子夫人の間には子が授からなかった為、願掛けを行い草庵にこもると、瑞夢を得られ、のちの伝教大師最澄上人(幼名、広野)が誕生した。

元亀2年、織田信長の比叡山焼き討ちにより全焼。現在の本堂は文禄4年に建立され、宝永7年に改築され、こじんまりした寺院であるが、江戸時代には一山の寺務を統括する重要な寺院であった。
山門脇に「開山伝教大師御誕生地」碑、境内に「伝教大師最澄上人産湯の井戸」がある。
生源寺の古鐘(通称破れ鐘(われがね)JR坂本駅前の坂本石積みの郷公園にある。比叡山焼き討ちの際、村人に急を告げるため釣鐘を力の限り乱打した。その際あまりにも強く打ち鳴らしたため、ひび割れが入って不思議な音色になり、それ以後、村人たちから「破れ鐘」と呼ばれるようになった。
○伝教大師最澄 真言宗を開いた弘法大師空海と共に遣唐使として唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建立し天台宗の開祖となった。密教を本格的に学んでいなかった最澄は年下の空海に密教の教義を請い、弟子も空海に預けた。真言宗が密教ということもあり、十分に教えてもらえず、弟子も最澄の元に帰らず、二人の亀裂が生じたまま、失意のうちに入滅。死後40余年後に、朝廷によって、日本で最初に大師という敬称が贈られた。その称号が「伝教大師」である。


  市殿神社

最澄の母、妙徳夫人(藤原藤子)を祀る。比叡山花摘峰(はなつみのみね)に社が建てられたが、その後崩壊し、現地に移される。人物を祀る神社としては日本最古とされ、子授け、子育ての神として崇められている。「市殿」は神に仕えた女人を「市子」「一殿」と呼んだことに由来。
穴太衆積み 坂本の至る所に見られる石垣は、穴太衆という石工集団によって築かれた。石積みの方法には、石の加工程度により、自然石を加工せずに積む「野面積み(のづらづみ)」、槌で叩いて加工した石を積む「打込み接ぎ(うちこみはぎ)」、ノミで加工した石を隙間なく積む「切込み接ぎ(きりこみはぎ)」の三種類がある。一見、粗野に見える野面積みだが、重心のかけ方、排水などの工夫により堅牢さが保たれている。


  西教寺

天台真盛宗総本山戒光山(かいこうさん)兼法勝西教寺、天台真盛宗の総本山。本尊は阿弥陀如来(重文)。聖徳太子による創建とされ、天智天皇の治世に丈六の阿弥陀仏像を安置して西教寺の勅額を賜ったとされる。その後、慈恵大師良源(元三大師良源、18代天台座主)、恵心僧都源信が復興して念仏道場とする。室町時代になり、1486年に中興の祖である真盛が入寺してからは、称名念仏と戒律の道場として栄え、後に天台真盛宗の寺院となる。1571年、比叡山焼討ちの際に、西教寺も焼け落ちる。しかし、光秀が坂本城を築城すると、その保護を受け、三年後、甲賀の浄福寺の阿弥陀仏を本尊とする仮本堂が建立される。


  聖衆来迎寺

紫雲山聖衆来迎寺、天台宗の寺院。本尊は阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来。790年、最澄による創建。平安時代初期に源信が念仏道場として聖衆来迎寺と改称し、中世を通して延暦寺の念仏道場として栄えた。
表門(重文)は、坂本城の城門の移築と伝わる。棟が前方に位置する薬医門形式。明智光秀による寄進状も伝えられ、光秀の庇護が窺える。境内に「本堂」(重文)、「客殿」(重文)、「開山堂」(重文)、森可成(もりよしなり)の墓、織田秀信の母、寿々(すず)の墓などがある。信長の忠実な配下の森可成の遺骸をこの寺に運び込み丁重に葬ったことにより、比叡山焼き討ちで、唯一焼かれなかった天台宗の名跡である。
森可成(もりよしなり) 織田信長の家臣で槍の名手。子に森成利(なりとし)(森蘭丸)がいる。浅井長政・朝倉義景の連合軍が、姉川の戦いの後に、大津へ侵攻してきた際、宇佐山城(近江神宮背後の宇佐山に築城)を守る森可成は奮戦するも三万ともいわれる軍勢の前に討ち死にした。可成など重臣一族を失った信長の怒りは大きく、翌年の比叡山焼き討ちにつながっていったと言われている。
織田秀信 幼名、三法師。織田信長の子である織田信忠を父とする。清州会議において羽柴秀吉の提案により、わずか3歳で織田家の家督を相続。その後、岐阜城主となり、関ケ原の戦い前哨戦では西軍に属し、岐阜城に立てこもるが落城。池田輝政の説得で降伏し、出家し高野山に入るも26歳で病死。この時点で信長直系の家系は途絶える。


  西近江路・旧比叡の辻

近江国(滋賀県)から越前国(福井県)へ通じる街道。北国街道とも。律令時代には、官道として栄え、畿内と北陸を結ぶ道として往来が多いだけでなく、古くは壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、源平合戦などでは大軍が移動している。また、戦国時代には、信長が浅井・朝倉連合軍に敗北を喫した金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)においては、越前への侵攻時に通ったとされる。沿道に、日吉大社境外百八社に数えられる神社や、最澄創建の寺院が点在する。
〇旧比叡辻
 北国街道(西近江路)から坂本を経て日吉大社・延暦寺へ続く道の辻にあたる。室町時代には、馬借・車借が集まる交通の要所で、比叡辻の角に鎮座する若宮神社は日吉大社境外百八社の一つ。


  酒井神社・両社神社

酒井神社 両社神社と共に日吉大社の境外末社の一つで、道を挟んで南北に相対している。両殿ともに信長焼き討ちで焼失したが、天正16年(1588)に再建。元和6年(1620)に移され、両社神社と共に、本殿が建立された。両本殿は構造形式、手法、様式など全く同じでわずかに蟇股や虹梁の細部が違うだけである。祭神は、大山咋命(オオヤマグイノミコト)。らい(石が積み重なっていること)から酒が湧出し、その様子を神聖視し祀ったことが起源。
明治二九年琵琶湖洪水石標 1905年の瀬田川南郷洗堰の完成まで、琵琶湖沿岸は洪水などの被害を受けていた。明治29年の洪水は大水害で、水位は13尺(約4m)に及んだ。
〇両社神社
 祭神は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)。高穴穂神社(穴太駅の近くにある神社)の祭神を酒井神社の境内に勧請したことが起源。


  坂本城址

かつての西近江路と中堀は隣接しており、中堀を埋めて西近江路と一体化したのが今の道路であると推定される。現在見るべき遺構がほとんど残っておらず、石碑と案内板だけがひっそりと立っている。
坂本城縄張り 縄張りとは今で言う設計である。作事は工事。町割は都市計画。光秀は特に縄張りと作事では織豊時代城郭作りの先端を切っていた。
<外堀> 北辺を旧藤ノ木川、南北は酒井神社と両社神社の二社と下坂本小学校の間を通り(異説あり)、南辺を信教寺川とする。
<中堀>北辺を両社川(酒井神社と両社神社の間)、南北は西近江路を通り、南辺を東南寺川とする。
<内堀>東端を湖中石垣、北西隅を明智塚、南辺を東南寺川とする。


  東南寺・明智塚

東南寺 最澄の創建。天台宗の高僧が5日間にわたり法華経を説く「戸津説法(とづせっぽう)」が現在も行われ、天台座主への登竜門とされる。東南寺川が、坂本城の中堀と内堀と想定される。
〇明智塚 本能寺の変の後、坂本城落城の際に、光秀の脇差、倶利伽羅江(くりからごう)などの家宝を埋めた跡であり、明智一族の墓所とされる。地元住民によって整備されている。坂本城の本丸と二の丸の間にある内堀に近接する。
倶利伽羅江 南北朝時代の刀工、郷義弘(ごうよしひろ)の作。かつては朝倉家が所持。坂本城落城の際、光秀の娘婿である明智秀満が切腹する際に使用したとされる。


  坂本城址公園

坂本城は、明智光秀によって築かれた平城。西に比叡山、東に琵琶湖という天然の要害を具える。1571年、比叡山焼き討ちの後、織田信長の命により築城が開始された。
城の特徴は城内に琵琶湖の水を引き入れたイエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』では「~大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土城に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と記されているほどの「水城形式」の名城であった。また、津田宗及、吉田兼見など訪れ接客の場ともなり、城が純粋な要塞から政治的象徴に移り変わっていった時代でもあった。
当時、現在の下坂本から唐崎付近にかけて、「戸津」「志津」「今津」という3つの港(総称三津浜、坂本港)があり、坂本港支配の拠点として東国の物資は湖上輸送により坂本港に集結し、山中越を経て京都に輸送された。
天正10年(1582)本能寺の変直後、坂本城は焼失するが、羽柴秀吉により再建され、坂本はしばらくの間にぎわっていたが、秀吉が本拠を伏見、大阪に移すと、滋賀~京都の峠越えは、山中越(南滋賀ランプ~比叡平~北白川別当)から逢坂越(現在の国道一号線)へと変わり、坂本城は廃城となり、かわりに大津城が築城された。大津城も関ケ原の戦い後、家康が大津城を廃城にし、新たに膳所城を築城した。大津城攻防戦で戦禍を免れた建築物の一部は転用、移築された。
公園内には、明智光秀像、歌手の鳥羽一郎さんが歌う『光秀の意地』の歌碑がある。
公園から少し南にある山王鳥居は、七本柳鳥居(ひちほんやなぎとりい)という。日吉大社のお祭りである山王祭において、船渡御の起点となっており、神輿を乗せた船は、唐崎神社の沖に向かう。

  盛安寺

天台真盛宗の寺院。創建は不明だが、朝倉氏の家臣、杉若盛安(すぎわかもりやす)により再興。その後、何度も焼失したが、その度復興され現在に至っている。
客殿と木造十一面観音菩薩立像は重文。太鼓楼には光秀ゆかりの陣太鼓を安置。


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