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寺院が集団移転した街・鴨東新洞を歩く

鴨東新洞地域には55もの寺院が集積し、「新」を冠する通り名が多く天明大火や幕末の大火以前に移転していたため、江戸期前期から中期の寺院建築(錣(しころ)葺き屋根の仏堂)が残り、天明大火で失われた京都市街の景観を残している。

  檀王法林寺

浄土宗の寺院。陽山栴檀王院無上法林寺浄土宗三条派祖の道光了恵上人が開創した悟真寺の故地に、琉球王国より帰国後、袋中創建した。
袋中は未渡の仏法を求めて明に渡るため琉球に滞在していたが、大陸にわたる便船が見つからず帰国し、伏見の信者の家に身を寄せていた。慶長161611)年、京都三条大橋あたりに住む伏見次郞兵衞の深い帰依により自宅裏の藪を拓いて草庵を結び、袋中を迎えた。これが当寺の創始である。松平定綱や京都所司代板倉勝重の帰依も得て,堂宇を造営し、信者から得た寄付などで寺地を少しずつ広げていった。
また、日牌・月牌と呼ばれる位牌を本堂に祀って死者の追善をおこなう祀堂回向を執りおこない、当寺の重要な収入源となっていた。元和51619)年袋中は『法林寺什物帳』を作成し、これを住持第2世の團王良仙へ引継ぎ、自身は東山菊ケ谷に隠棲した。團王良仙は人徳厚く、袋中以上に町衆信者との交流を深めたことから、親しみを込めて「だんのうさん」と呼ばれ、これが檀王法林寺の名の由来となっている。
檀王法林寺には、初代袋中上人によって感得され、日本でここに初めて現れたと説かれるが祀られている。さらに、主夜は守夜と転じて、夜を守り盗難や火災などを防いでくれる大変なご利益もある。この主夜神は古くから黒猫が御使いであるとされ、江戸中頃より主夜神尊の銘を刻んだ招福猫が作られた。右手を挙げ、黒色をまとった珍しい様相で、寺社関連の招き猫としては最古のものとする説がある。


  心光寺

法城山晴明堂心光寺、御本尊は阿弥陀如来座像。御本尊の他に陰陽師・安倍晴明(921-1005)が建てた法城寺の御本尊だった阿弥陀如来立像や晴明が呪術に用いたという地蔵菩薩立像も安置されている。
法城寺は平安時代、安倍晴明により鴨川の治水祈念のために五条中島の鶴ノ林(現在の松原橋付近東北の中州)に建立。寺名の「法」は水が去る、「城」は土が成る、の願意。晴明没後、遺骸は寺内に埋葬され、塔婆が立てられ「晴明塚」と呼ばれた。
当初は真言宗であったが中世に浄土宗に改宗され阿弥陀を安置、寺号も心光寺と改められ、知恩院に属した。その後、幾度か洪水により流され、廃寺になる。
江戸時代、寿林和尚により、三条橋東の現在地に移され中興される。その際に、晴明塚も遷されたともいう。



  頂妙寺

日蓮宗の本山。山号は聞法山。塔頭が八院ある。下総国出身の僧日祝(14371513)によって創建された。
日祝は文明元(1469)年上洛。檀越の細川勝益から寺地の寄進を受け、文明51473)年に頂妙寺を開山した。当時の寺地は、南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現・柳馬場通)、東は富小路通に至った。その後、頂妙寺は移転を繰り返した。寛文131673年)の寛文大火で内裏が炎上し、当時内裏に隣接していた頂妙寺は鴨川の東岸・二条川東の現在地に移転した。天明81788)年の天明大火により焼失するが、その後再建された。
頂妙寺の境内の仁王門(二天門)には、伝運慶作の持国天像、毘沙門天(多聞天)象が安置されている(一般的には仁王門は阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の金剛力士像が立っていることが多い)。門の中央上部に豊臣秀吉が宗門布教の再開を許可したとされる書状の扁額も掲示されている。
天正7年(1579年)の安土宗論(安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。安土問答とも)には頂妙寺から日珖が臨んだ。頂妙寺は「風神雷神図屏風」で知られる江戸時代初期の画家・俵屋宗達とのゆかりも深く、境内には宗達のものと伝わる墓があり、宗達作の重要文化財の「紙本墨画牛図」を所蔵している。
仁王門通
 仁王門通の名称は頂妙寺仁王門に由来する。この仁王門は「二天堂(二天門)」とも呼ばれるが、この二天門が、いつしか訛って仁王門と呼ばれたとも言われる。


  大蓮寺

浄土宗寺院。引接山極楽院大蓮寺
慶長5(1600)年、専蓮社深誉和尚により開山。
●安産阿弥陀如来縁起 本堂の慈覚大師の作と言われる阿弥陀如来像には「安産の寺」の由来がある。慈覚大師は晩年、比叡山の念仏堂で念仏三昧修行の最後に阿弥陀如来を彫られていると、阿弥陀如来の「比叡山から京都へ下りて、女人のお産の苦しみを救いたい」の夢告があった。それに従い比叡山を下りて真如堂に安置されると、たちまち京都の女性たちの圧倒的な信仰を集め、多くの出産の苦しみを救われた。後年、応仁の乱で真如堂は荒廃し、阿弥陀様は行方知れずになってしまった。後に大蓮寺開山の深誉上人が伏見の一軒の荒れたお堂に光まばゆい阿弥陀如来を見つけ、誰もこの阿弥陀如来をお守りしている気配のないことに心を痛めて大蓮寺を建立し、この阿弥陀如来を安置した。
一方、元禄年間に復興した真如堂は失った阿弥陀如来を探し始め、大蓮寺の阿弥陀如来が真如堂の本尊であることが分かった。幕府から阿弥陀様を真如堂へ返還するように命じられた上人が21日間念仏を称え続けると、驚いたことに阿弥陀如来像が二体に分かれ、大蓮寺と真如堂で一体ずつ安置することになり、現在まで伝わる。
●祇園社との関係 開祖深誉上人は祇園感神院(現・八坂神社)境内の観慶寺の勧進を務めた縁で廃絶した観慶寺の仏像・仏具はすべて大蓮寺に移された。重要文化財の薬師如来(伝教大師御作)、日光・月光菩薩、洛陽三十三所観音霊場8番の十一面観音菩薩、洛陽十二神中の夜叉神明王などがある。
●走り坊さん 大蓮寺には明治・大正期、京都市中を一日中走る行いで知られた「走り坊さん」と呼ばれた僧がいた。法名:旗 玄教(18721918)。
寺の本堂や観音堂再建の勧進に市中を走るようになり、以降毎日、雨でも風でも一日も欠かさず托鉢に出て、市中を寺のお札を配りながら走り回った。常に貧民街に出入りし、富裕な檀信徒から布施を受けることがあっても、それをすべて貧しい人々に施したゆえに、いつとなく「今一休」と呼ばれた。また毎月1回は、未明に寺を出立し、四明岳・比叡山を経て鞍馬山に至り、さらに愛宕山山頂の愛宕神社に参詣して帰るということもしていたという。
●法勝寺の礎石 境内大王松の横庭石は勝寺の礎石らしく、岡崎の檀家から庭石として寄付された。法勝寺は、平安室町時代まで白河(現・京都市動物園付近周辺)にあった寺で、六勝寺のうちで最初にして最大の寺。白河天皇承保31076に建立し、皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した。境内には高さ27丈(約81m)の八角九重塔があったとされる。


  大恩寺

浄土宗日陽山大恩寺、天正131585)年、豊臣秀吉が叔母(大恩院殿日陽慶春大姉)の菩提を弔うために建立した。当初は二条室町西側にあり、天正151587)年には寺町丸太町下る東側に移転。宝永大火により焼失後現在地に移った。明治維新までは塔頭寺院が三ヶ院も存在した。浄土宗洛中四十八願所の第22番。江戸時代の蘭学者でわが国最初の日蘭辞典「波留和解」を書いた海上随鷗稲村三伯)の墓がある。


  妙傳寺

山号は法鏡山、本尊は勧請様式曼荼羅。鎌倉の本覚寺(東身延)に対して、宗祖日蓮の遺骨を奉安し、総本山である身延山久遠寺の守護神七面天女を安置することから西身延とも呼ばれる日蓮宗の本山である。境内には日蓮上人が経典を持った像がある。
妙伝寺を建立した僧・日意は学頭職を務め、伊勢桑名・妙蓮寺の住職だったが、法門に疑問を覚えて身延山久遠寺第11世・日朝の弟子となり、日蓮宗に改めて明応81499)年久遠寺第12世になった。南座の「吉例顔見世興行」の「まねき」は、井上玉清さんが妙傳寺で書いている。妙傳寺は歌舞伎の片岡家の菩提寺でもあり、現在お墓は東京にあるが興行で京都へ来られた際は必ず詣でられるということである。
また境内には明治維新前夜尊攘派公卿として活躍し、文久31863)年「818日の政変」での「七卿落ち」の一人、四条隆謌夫妻の墓がある。
西方寺
 山号は願海山。本尊は阿弥陀如来。開基は平安末期の左大臣大炊御門経宗(藤原経宗)と伝える。藤原氏一門の大炊御門家、宇多天皇一門の綾小路家、五辻家の菩提寺。
浄土宗を開いた法然上人の元で出家した平安末期の左大臣大炊御門経宗卿が文治51189)年に71歳で没した際、経宗の居所であった一条新町の館を西方寺とした。その後、両替町竹屋町上がる西方寺町に転居した後、豊臣秀吉の都市計画により寺町椹木町東に移転したが、宝永大火で類焼し、現在地に移転した。寛永の三博士の一人、柴野栗山の墓がある。
木造阿弥陀如来坐像 像高236.0cm、寄木造の丈六坐像。寺伝では白河天皇の法勝寺の遺仏とされる。光背は本尊とは別に造られ一般的な千仏光背より多い化仏をもつ三千仏光背。
豊臣秀吉坐像 像高81cmの寄木造、敷物の上に束帯姿で烏帽子を冠り右手に笏を持ち胡座をかいた公卿姿の秀吉像。平成222010)年の解体修理の際、頭部・脚部から発見された文書より、慶長4(1599)年に七条仏師康住法印により作成されたことがわかった。
衣通姫地蔵 門をくぐり北の地蔵堂に祀られている。寺伝では允恭天皇の寵妃・衣通姫が七歳のとき一度疫病で亡くなるものの冥土で地蔵を拝して蘇生したことを受け、報恩のために造られたと伝えている。洛陽四十八カ所25番の霊場。
細見美術館
 大阪の実業家細見亮一とその子、孫の三代が収集した美術品を収蔵展示する。神道・仏教美術から茶の湯の美術、琳派・伊藤若冲といった江戸絵画など、日本美術のほとんどすべての分野・時代を網羅する。平成101998)年に開館。設計は大江
みやこめっせ(京都市勧業館
平安建都1200年記念事業の一つとして平成81996)年に建設された。設計は川崎清。また、館内は常設展示(京都伝統産業 ふれあい館、日図デザイン博物館)とイベント用の複数の展示場、会議室などがある。
藤井斉成会有鄰館
 藤井紡績創業者の藤井善助が大正151926)年に設立した美術館。第一館は、正面に石造りの獅子一対を置き、屋上には朱塗りの八角堂を有する独特の意匠の建築で、設計は武田五一、建築は大林組。市登録有形文化財。屋根には乾隆年製の黄釉瓦36,000枚をのせる。木造の八角堂は本場中国から取り寄せたものである。
北魏の石仏、隋・唐の仏像、世界最大の銅鼓、書籍、絵画、玉器、印璽など中国を中心とする美術工芸品を展示する。近代の民間美術館では東京の大倉集古館に次ぎ現存最古の建造物。第二館(収蔵庫と併せ国登録有形文化財)はフランス人の設計によるルネサンス風の明治中期の木造2階建てで、昭和31928)年にここに移築された。


  本妙寺

山号は祥光山。日蓮宗妙覚寺派、本尊は題目釈迦多宝仏を安置。鎌倉時代末期の正和41315)年に日蓮の法孫の日像が渡辺氏の帰依を受けて自邸を寺として創建したのが始まりであるが、創建後ほどなくして中絶。創建から250年以上経った天正21574)年、日典が新烏丸丸太町付近に再建。宝永大火のあと現在地へ移り、享保131728)年に日正によって再興、現存する本堂は、この時に再建されたもの。
境内には赤穂義士の吉田忠左衛門・同沢右衛門・貝賀弥左衛門夫妻らの墓がある。京の通称寺霊場25番、赤穂義士の寺と呼ばれる。
矢ッ車留吉の石碑 碑の背面には、「発揆人 矢ツ車若中 明治二十九年三月三日 川上音二郎建立」とある。矢ツ車留吉は、明治21年の興行をきっかけに京都相撲に入り込んだ侠客で明治2311月には勧進元を務め、255月には副取締となったが、28620日コレラのため急死し、27日本妙寺で葬儀が行われた。
オッペケペ節で有名な川上音二郎は、日清戦争では戦争劇で歌舞伎座にまで進出し、明治29年は最も華やかな時で、興行で世話になった恩義に報いて、前年死去した矢ツ車の碑を立てたそうである。境内には矢ツ車留吉・松之助(二代)の墓がある。


  聞名寺

58代光孝天皇の小松殿跡と伝え、大炊御門大路室町付近に所在したので大炊道場とも呼ばれた。その後荒廃したが一遍が復興し、一時期時宗遊行派の京都重要拠点である七条道場金光寺の院代寺院となり栄えた。宝永大火後現在地に移転。
本尊・木造阿弥陀三尊像(13世紀)が、鎌倉時代の仏師・快慶の一番弟子作。
また境内の明眼(あけめ)地蔵は眼病平癒に御利益がある。光孝天皇が眼病を患い、加茂の明神で平癒を祈願すると夢中に老翁が現れて地蔵菩薩を彫って守護仏にせよと告げた。光孝天皇が慈覚大師・円仁に造仏させると眼病が平癒した。
江戸時代後期の歌人で桂園派の祖となった香川景樹の墓がある。
信行寺
 伊藤若冲晩年83歳頃の花卉図天井画で知られる寺院。
若冲は、晩年を伏見区にある石峰寺で過ごした。もともと花卉図は石峰寺の観音堂の天井画であったが、明治時代に人の手に渡り、信行寺へと寄進され現代に至る。
天井画の大きさは、4.8×11.5m。八段・二十一列の合計168の格子面に分かれ、格子面の大きさは、38×38㎝。その11つに花卉が描かれている。最も多い絵柄は、牡丹で菊・梅が続く。藤・朝顔・紫陽花・桃・蓮・百合。芍薬・向日葵・サボテン・ハイビスカスなども描かれている。


  寂光寺

顕本法華宗の本山。山号は妙泉山。宏師寮法縁。
日淵は天正61578)年室町近衛に久遠院を建立し、その後、京極二条に移し、空中山寂光寺と称した。日淵は安土宗論に参加している。その後、日淵は弟子の教育に力を注ぎ、名僧・日海を輩出し法華宗の発展に大きく寄与することとなった。
日海は塔頭の本因坊に住み、後に本因坊算砂と号した。当時、碁技に優れ、敵手無く、織田信長から名人と称揚された。江戸幕府から俸禄を受け家元本因坊家の始祖となり、碁打ちの最高位、連絡係に任ぜられて以降、本因坊の名称は碁界家元の地位をもち、襲名継承される様になった。
なお、本因坊道策の時に寂光寺から江戸に移った。近年、妙泉山寂光寺と改称した。
また、明治40年(1907年)には、日本最初の「京都私立子守学校」を開校し、宗教、道徳教育を地域の人々に講義した。


  要法寺

日蓮本宗の本山 山号は、多宝富士山。日興の法脈を継承する富士門流に属し、同門流の興門八本山を構成している。開基は日蓮本宗第4代日尊。日尊は、西国弘通(=布教)を志し、その拠点として延慶元(1308)年京都に法華堂を建立した。天文191550)年、日辰により上行院と住本寺を統合して要法寺が建立された。
それ以降天文年間には天台宗徒による法難に遭い、大阪堺に一時避難。天正191591年)には町割の整理実施により寺町二条移転。宝永大火では類焼。その後東山三条に移転し現在に近い一応の堂字の形を整えたが、寛政年間には宗外から法難を受けたりもした。現在は市街地の中に13,500㎡の境内をもち、歴史ある建築が並ぶ。塔頭は妙種院、真如院、本地院、本行院、顕寿院、實成院、法性院、信行院。
親子鴨の鴨川への引越しで有名。


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