>

京都駅と周辺を訪ねて

JR京都駅とその北のあたりとを少し深堀しました
当日は、雨天にかかわらず、49人の参加がありました。

  興正寺(こうしょうじ)

興正寺は真宗興正派の本山で、文明年間(1469-87)佛光寺の14世経豪が本願寺8世の蓮如に帰依し、佛光寺を弟に譲り、名を蓮教と改め、山科に一宇を建立したのが起こりです。佛光寺の旧称によって興正寺(興隆正法寺)と称し、その後、石山本願寺とともに寺地を移転し、1591年(天正19)現在地に移っている。
寺伝では、第7世了源上人(1295~1336)により、鎌倉時代に創建されたと伝えられている。越後国へと配流された親鸞聖人が、建暦2年(1212)に、山科の地に一宇を草創したことに始まるとされ、興正寺という寺号は、順徳天皇(11971242)によって名づけられ、日本に仏教をひろめた聖徳太子の事績にちなみ「正しき法を興し、さかえさす」(正法を興隆する)との願いからつけられたもの。


  西本願寺

浄土真宗本願寺派の本山で、 正式名称は「龍谷山 本願寺」。宗教法人としての名称は「本願寺」。1263年、親鸞聖人が亡くなり、文永7年(1272年)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建され、その後、場所は転々とし、現在地には天正19年(1591年)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転。しかし顕如上人亡き後、後継者問題が勃発し、1603年に徳川家康に土地を寄進された教如上人は東本願寺を分立し、その後も本願寺は東西に分かれたまま現在に至ってる。
西本願寺には国宝や重要文化財の建造物、美術品が多く、199412月には「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコの世界文化遺産に登録。

国宝:阿弥陀堂・御影堂・唐門・飛雲閣・対面所(鴻の間)・雁の間・菊の間・雀の間・白書院黒書院・北能舞台
阿弥陀堂と御影堂(ごえいどう)は、現在3代目。最初は慶長元年(1596)地震により、倒壊、元和3年(1617)本願寺両堂焼失。寛永13年(1636)、御影堂再建、宝暦10年(1760)阿弥陀堂再建。現在、修復中。本来は阿弥陀様が安置。現在は隣の御影堂にうつしてあり、修復の完成予定は22年、春。阿弥陀堂と御影堂は廊下で結ばれているが、阿弥陀堂から、御影堂へは廊下が緩やかにくだっている。親鸞上人が目線をたどっていったとき、阿弥陀様の足元くらいにくるように設計されたもの。


  正面通と本願寺伝通道院

豊臣秀吉は、死後、自分を神格化させるため、阿弥陀ヶ峰に西向きに豊国廟をつくり、そこから真西に向かって阿弥陀ヶ峰の麓に豊国神社、方広寺大仏殿、さらに真西の本願寺に土地を与えて阿弥陀堂を建てさせ、一直線上に配置しました。
徳川家康はこのような秀吉の神格化を防ぐために、豊国廟・豊国神社をこわして、参道を防ぐように新日吉神宮(いまひえじんぐう)を建て、さらに方広寺は妙法院に与えました。そして、方広寺と本願寺の間には本願寺を分裂させて東本願寺を創建し、東向きに阿弥陀堂を建てさせ、さらにその東に東本願寺の渉成園を作らせることによって、豊国廟から本願寺へ続く直線をことごとく分断したといわれます。

しかし江戸時代中頃になって、方広寺から西本願寺へ向かうこの道が「正面道」と称されるようになったのですから、京の庶民の秀吉に対する人気の高さがうかがわれるというものです。

この正面道に面して本願寺伝道院が東大教授、伊藤忠太の設計で1912年に建築されました。木造の伝統を進化させる「建築進化論」をベースに、古典様式を継承しつつ塔屋の形態はサラセン様式が採用されています。


  東本願寺

浄土真宗大谷派の本山である東本願寺は京の人々から「お東さん」と親しまれ、正式名は「真宗本廟」である。
慶長7年(1602年)後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から西本願寺の寺内で隠居していた教如(11代顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進され、朝堂を建立したことに始まる。本願寺が正式に西(本願寺)と東(大谷派)に分立する。
慶長8年(1603年)上野国妙案寺(現在の群馬県高崎市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立、慶長9年(1604年)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。これが「真宗本廟」の成り立ちであり教如上人を「東本願寺創立の上人」とするゆえんである。
御影堂 桁行 63.6メートル 梁間45.5メートル 二重 入母屋 本瓦
現在の建物は明治2年の建立で、我国最大の平面規模を持つ雄大な伝統木造建築物である。
阿弥陀堂 桁行39.8メートル 梁間48.6メートル 一重 入母屋 向拝三間 
元治元年(1864)の焼失後幕末から昭和にかけて順次再建された。


  渉成園(しょうせいえん)

1641(寛永18)年 徳川家光によって新屋敷として寄進されて、1653(承応2)年13代宣如のとき、石川丈山が作庭したのが渉成園の始まりである。早春から初夏まで、ウメ、サクラ、フジ、ショウブが咲き、秋にはカエデ、モミジが鮮やかに色づく。周囲に枳殻(からたち)の木が植えられていたことから、別名枳殻邸と言われ、昭和11年12月には国の名勝に指定された。
1858(安政5)年と1864(元治元)年の2度の火災で焼失しているが、御所から車寄せの建物が下賜されて表玄関とし、明治時代初期までには庭園も当初の頃と変わることなく復元し、整備も行われている。園内の6分の一を占める印月池は池泉回遊式で池内には2つの島があり、北側の大きい中島には、数寄屋風茶席の「縮遠亭」(しゅくえんてい)がある。石造り宝塔は塔身を利用した手水鉢は、源融が塩を釜で焼いた窯の手水鉢として有名である。

塩釜   海水を煮て塩をつくるかまど(竈)のことを「塩竈」といいました。つまり、もともとは地名ではなく、製塩用のかまどのことを指す名詞でした。以前は日本の各地の砂浜にこのようなかまど(塩竈)があり、これが海辺の風景におもむきを添えていたといわれています。


  ヨドバシカメラ(旧丸物百貨店)

中林呉服店がルーツで1920年(大正9年)に京都駅前へ「京都物産館」として進出し1926年(大正15年)京都物産館新館(6階建)完成、百貨店形態の店舗を開設したのが始まりである。1931年(昭和6年)には「丸物」に商号を変更すると共に「豊橋丸物」を開業、名古屋市にも出店。「大垣丸物」や九州の八幡にも開業を果たした。そして、東京進出を目指し1955年に「新宿丸物」開業、全国チェーンストアー化が完成した。
1960年創業者中林仁一郎社長の急逝後、1969年売り上げ鈍化し、東京からの撤退、「八幡丸物」も閉店。1977年(昭和52年)近畿日本鉄道の資本参加を受け,本体の「株式会社丸物」も「株式会社京都近鉄百貨店」、関連会社の枚方丸物も「枚方近鉄百貨店」となり、「丸物」百貨店の名称は消滅した。そして、「近鉄百貨店」に移って営業した店舗も、1999年(平成11年)岐阜店、2007年(平成19年)の京都店と次々と姿を消し、2012年(平成24年)の枚方店閉店となる。2010年(平成22年)ヨドバシカメラ京都店がオープンした。


  京都タワー

京都駅烏丸中央口前に大きくそびえ立っているビルの屋上のタワーが京都タワーであり、ビルを含めた高さは131mあり、京都市内で最も高い建造物である。
1953年京都中央郵便局の移転に伴い、その跡地に()京都産業観光センターの設立が決まりその建造物の上にタワーを建造することになり、モノコック構造(円筒型の塔身を作ったもの)を採用した。

建設当時「東寺の塔より高いものは建てない」が不文律となっていた京都市で歴史的景観との調和のありようが争点となっていた。結局、高さなど厳しい建築物でなく「工作物」として建築された。最近は京都市のランドマークとなり映画や漫画にも登場するようになってきた。台座のビルにはホテルや名店街が入居するほか、地下3階に朝7時から営業している公衆浴場がある。展望台や名店街ではタワーに関するグッズなどの販売も行


  JR京都駅

開業は1877年(明治10年)当初は、新橋駅―横浜駅間の鉄道に続いて2番目に開業した。神戸駅―当駅間鉄道の終着駅であった。その後、山陰本線が開通し後の奈良線となる奈良鉄道や市内の京都市電も乗り入れるようになり、当駅周辺は急速に発展していった。1921年(大正10年)に東海道本線のルートが東山トンネル・新逢坂トンネルの開通によって膳所駅とつながり、変更・短縮された。1964年(昭和39年)東海道新幹線の京都駅が併設し開業した。
現在の駅舎は4代目に当たる。1915年、大正天皇の御大典に併せて古典形に式の2代目駅舎が渡辺節の設計により建築されたが、1950年に火災により焼失、その後1952年に鉄筋コンクリート造の近代的な3代目駅舎が竣工した。しかし、駅が発展するとともに増築に次ぐ増築を重ねたため、地下街を含む商店街や連絡通路などを含めると構内の構造は複雑化し、不便のものになっていった。また駅舎本体にも老朽化に伴う種々の問題が生じてきた。そこで、抜本的対策として駅ビルの新築が計画された。これは1994年の平安遷都1200年記念事業の一環でもあった。新京都駅ビルは、日本の鉄道駅舎としては異例の国際指名コンペ方式で行われた。採用された原広司案は、最大高さを60mに抑えた上で、南北方向の道路に合わせて建物を分割して視線を通すなど、圧迫感を回避するような配慮が随所に見られる。京都駅ビルは、東側にホテルグランヴィア京都、西側に百貨店のジェイアール京都伊勢丹が位置する。」その間の中央コンコースは、4000枚のガラスを使用した正面と大屋根で覆う広々とした吹き抜けになっている。吹き抜けの最上部には地上45mの空中経路が通っている。当ビルは規模の巨大さとデザインの斬新さにより、建設時はもちろん建築後もその評価には賛否が
ある。


Copyright © 2000-2009 KYOTO SHISEKIGUIDE VOLUNTEER KYOKAI and KAMO SQUARE. All Rights Reserved.