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ウォークの地図

三条通の近代建築を巡る

三条通は、明治の香り漂う洋風建築の他、伝統的な町屋やすぐれた現代建築など、用途や様式の異なる各時代の建物が集積して、独特の雰囲気を醸し出している
平成9年(1997)周辺一帯が三条通界隈景観整備地区に指定された。

  越後神社

安土桃山時代の武将・杉若無心越後守が住んでいたことによる。その後、当地一帯は、浅井長政など諸大名の所有を経て、幕末には丹波篠山藩の青山家の京屋敷となった。このため、参道は青山路地と呼ばれている。当神社には、弁財天、福鷹龍神及び福徳稲荷大明神を祀る。
当地は、友禅染の中興の祖と称えられる廣瀬治助(備治)翁の遺蹟としても知られている。明治12年(1879)頃に、手描友禅の名工であった治助翁が、型紙と色糊を組み合わせ、試行錯誤の末に、「写し友禅(型友禅)」を創案した。明治21年(1888)頃に、当地に染工場を建て、境内の泉水を使い、大量生産を行い、今日の友禅染普及の基礎を築いた。このため、染色に携わる人々からは、友禅神社とも呼ばれている。この治助翁の偉業を称え、顕彰祭を毎年4月に神社の例大祭と共に挙行している。


  柳の水

「茶道の祖・村田珠光、織田信雄、加藤清正、紀州藩邸 古蹟」の石碑がある。鎌倉時代後期、鳳凰山青柳寺という法華道場があったことから、この場所は「柳の水」と呼ばれた。
室町時代には、茶道の祖・村田珠光が住んでいた。千利休も柳の水を茶の湯に利用した。織田信雄が住んでいた頃、信雄が井戸の日除けに柳を植えたことから柳の水(柳水)と呼ばれたという説もある。
コップを持参すれば試飲できる。

家紋などの黒染め専業→最近は、全国から、いろんなものの黒染め依頼が。

西洞院通…平安京の西洞院大路で幅が8丈(24m)あったが、時代の変遷とともに現在の幅員となった。東西から眺めるとわずかに下がっていることが認められるが、通りの西側に河川(西洞院川)があった。現在は暗渠となっている。なお、1960年代までは西洞院通と小川通の民家の間を小河川が流れていたという。


  釜師 大西清右衛門美術館

大西家は室町後期から400年以上続く京釜師で、千家十職のひとつです。4代目当主が清右衛門を名乗ってから、6代目から9代目を除き代々、清右衛門を継承しています。現代は1993年から16代目清右衛門が継いでいます。
16代目は大阪芸術大学彫金科卒業。古代の技法、芦屋釜の再現、新たな創造に挑戦しています。


  文椿ビルヂング

大正9年(1920)に建てられた、珍しい木造の洋風建築である。設計者不詳。
西洋建築のデザインは、@基壇・A胴部・B頂部の三層構成で、その伝統的な特徴を持ちながら、タイル貼りの平滑な外壁や、上下の窓間にある縦のストライブ模様、玄関に付けられた八角形断面を半割した片蓋柱の幾何学模様などのセセッション様式を見ることができる。
17世紀のフランスで考案された、寄棟屋根のマンサード屋根と呼ばれる腰折れ屋根と、19世紀末にドイツやオーストリアで見られた、「セセッション様式」という幾何学的意匠や渦を巻く植物模様が、大正期に日本で流行した形態が採用されている。
天井の高さは、神社仏閣並みの約5mあり、京都という土地柄と文明開化という潮流が融合した結果とされ、意外性に満ちた建物である。
当初は貿易会社の社屋として使われ、その後、繊維問屋に、戦後にはアメリカの文化施設としても使われたことがあった。
その後、内装業社、呉服商社として使われていたこの建物は、平成16年(2004)に商業施設として再生された。


  みずほ銀行京都中央支店(旧第一銀行京都支店)

建築家辰野金吾(18541919)が葛西萬司(18631942)と設立した事務所の設計する建物は、レンガの外壁に御影石のストライブが入った「辰野式」と呼ばれるスタイルが多い。この建物は、その作風の一つ。明治39年(1906)の建築。
壁の全面に強調された赤と白の横ストライプは、全盛期の辰野式の「フリークラシック」である。
全体的にはルネサンス風で、京都文化博物館の別館に比べると、大人しい雰囲気を持っており、「辰野式」の初期の細やかな意匠が感じられる。傾斜の大きい淡青色屋根と赤煉瓦タイルの組み合わせは、近代建築としての存在感があり、屋根面に多く突き出たドーマー窓が特徴である。
また、2階窓のアーチ部の装飾やコーナー部の屋根装飾も細やかで美しい。一見すると建築当初から建っているように見えるが、平成15年(2003)に鉄筋コンクリート造に復元再建されたレプリカで、外観にかつてのデザインが再現されている。
全面保存でない再建された建物にもかかわらず、烏丸通に昔から残る銀行建築の歴史としての継承と、当時の現物と見間違うほどの辰野式デザインが復元されていることから、建築物スポットとなっている。みずほ銀行の前身の『第一国立銀行』の初代頭取は、渋沢栄一(18401931)で、辰野金吾は、渋沢邸の設計を請け負うほどの縁があった。このため、この建物も渋沢傘下にあった第一銀行の京都支店として、渋沢から依頼されたと考えられている。


  新風館(旧京都中央電話局)

原型は逓信省営繕課の吉田哲郎の設計で、昭和元年(1926)竣工(同6年造築)し、近畿で初(6局)の自動式電話交換を開始した。その後も電電公社の西館として使用され続け、京都市の登録有形文化財に登録された。平成13年(2001)外見はそのままに「伝統と革新」をテーマとして、旧新風館がオープン。3階建てで煉瓦造りレトロな造りの商業施設で、中庭にはオープンスペースのホールを設置、コンサートや婚礼など多種多様に利用されていた。
本年416日(新型コロナで延期)にリニューアルオープン、ミニシアター、レストラン、ショップ、スペースに加えエースホテルが営業する。
吉田哲郎…モダニズム建築家、庭園研究家としても知られる。東京中央郵便局旧庁舎、大阪中郵旧局舎などを設計した。
京都市道路元標…道路元標は、道路の起点表示の原点となったり、市町村間の距離表示の原点となる。この元標は、三条大橋から移されたという説があるが、大正9年旧道路法施行時の告示には「下京区三条通烏丸通交叉点」とあり、最初からこの場所であったことがわかる。


  中京郵便局(京都中央郵便局旧庁舎)

明治35年(1902)建築。逓信省営繕課吉井茂則、三橋四郎の設計。京都市登録文化財。
基壇、胴部、頂部の三層構成を持つ典型的な西洋建築のように造られた。赤レンガによるイギリス風ルネサンス様式を取り入れ、左右対称で窓上部には半円形のペディメントを用い、優雅な曲線もある。
取り壊し案もあったが、反対運動もあり、現状は外壁と屋根を建設当時のままで、内部のみを鉄筋コンクリート等で強化した建築手法(ファサード保存)で昭和53年(1978)改装された。日本最初の改装例。


  京都文化博物館(旧日本銀行京都支店)

明治39年(1906)建築。昭和40年(1965)まで日本銀行京都支店として使用されていた。重要文化財。設計は辰野金吾と弟子の長野宇平治。
レンガ造り2階建、一部地下1階。当時は高い建築物がなかったので、この地域のランドマークでもあった。
三条通に対して左右対称で、赤レンガに白い御影石(花崗岩)を装飾的に組み合わせ。これは19世紀後半からイギリスで流行った様式で、辰野が好んで用いたので辰野式と呼ぶ。辰野が設計した東京駅や大阪市中之島公会堂と同じ様式。屋根は黒いスレート石をうろこ状に。突き出した窓(ドーマー窓)は採光のため。垂直のラインを強調した外壁。そこから突き出した壁は1215世紀のゴシック様式。窓上のベディメントをはじめ各部の装飾はルネサンス様式。玄関のアーチとアーチ内部の放射状のデザインはインドサラセン様式(ダイナミックで動的)。レンガ造り以外は木造だが、内部は、客溜まりと営業室の境目の2本の独立柱と上部桁にI形鋼。金庫は別棟で、渡り廊下で繋がる。建築面積(別館のみ)は884u。昭和40年日本銀行が河原町二条に移転後、平安博物館として使用され、同61年京都府に寄贈。同63年からは京都文化博物館別館。かつての営業室は、ホールとして演奏会・講演会などに使用されている。所長室・応接室などは店舗に。


  分銅屋足袋

創業元治元年(1864)の老舗足袋専用店。
表は店舗棟、奥は居住棟という表屋造。江戸時代の大火の後再建され、防火のため全体が黒の漆喰で塗り込め。軒下の袖うだつは防火意識の高さを表す。雨風から守るため看板に屋根という大胆なデザイン。
店の名前の由来:足袋店を始める前は、漢方薬を取り扱う店だった。漢方薬の目方を量る際に「分銅」というはかりを使用していたので、お店の名前にしたという。
うだつ…2階屋根の軒下部分にまで張り出し、防火壁になったものを袖壁と言い、独立して装飾がほどこされたものを袖うだつと呼ばれるようになった。
『うだつが上がらない』の語源…@うだつが、棟木に上から押さえられているように見えることから、上にいる上司から押さえつけられて出世できないという風に例えられた。A立派なうだつを付けるには、それなりの財力が必要なため、うだつがある家は裕福な家となり、裕福でない家はうだつが上がらない、となった


  日本生命京都三条ビル旧棟(旧日本生命京都支店)

大正3年(1914)の建築。辰野金吾が片岡安とともに設立した事務所の仕事で、レンガではなく石張を多用。各部に直線と円による幾何学模様を用いたセセッション様式が見られる。
昭和58年(1983)改築されたが、尖塔を含む建物の東側のみ元の状態で保存(一部ファサード保存)されている。西側は新館。


  SACRA(旧不動貯金銀行京都支店)

設計は、日本建築株式会社という建築事務所が担当。不動貯金銀行頭取の牧野元次郎は、米国ペンシルバニア大学への留学経験を持つ、建築家・酒井祐之助(18741935)を招聘。この他に同社には後に第一銀行営繕課を務める、建築家・西村好時(18861961)も短期間ではあるが在籍していた。
京都支店が建てられた当時、酒井や西村は事務所を退職しており、小川新蔵なる人物が技師長格で事務所を取り仕切っていたそうである。

木造の骨組みとレンガの壁下地の上にタイルや石材を張り付け。全体的構成は伝統様式だが、各部のデザインはセセッション様式。19世紀末にドイツ・オーストリアで始まり、大正期に日本でも流行。


  MAR court 京都三条店(旧家邊徳時計店)

家邊徳時計店は明治4年(1871)初代家邊徳之助が創業し、建物は初代徳之助が明治23年(1890)築造した。煉瓦造洋風店舗としては日本最古で、平成16年その後背部に展開する典型的な純和風の京町家を含めて、国(文化庁)の登録有形文化財となった。
建物両側にあるコーナーストーン、窓上に載る三角形のペディメント、エンタブレチェアと呼ばれる軒蛇腹など、全体としてルネサンス風デザインでまとめられている。中央が扁平になった3連アーチは支持柱がないことで重厚な歴史様式の中に軽量感を感じさせ、その内にはめられた鋭角が重なったデザインのステンドグラスは、次の時代の流行を予感させている。また店の右側の半分は大きな金庫になっているよう。木造の螺旋階段が目を引く。夜お店が点灯されるとノスタルジックな風景を生む。


  1928ビル

昭和3年(1928)竣工。設計は武田五一。地下一階、地上三階建、鉄筋コンクリート造。京都市登録有形文化財。元大阪毎日新聞京都支局で平成10年(1998)まで使用されていた。その後、耐震補強され現代に至っている。
当時は「大毎会館」と呼ばれていた。星形の窓には「毎」の文字があるそう。バルコニーは毎日新聞の社章のモチーフだそう。3階のアーチ型のホールはパフォーマンスの広場として活用されている。また、地下へ続く階段はカラフルなタイルが敷かれており、異空間への入り口になっている。
玄関のランプシェードがアールデコの影響を受けている。そして建物をジーッと見ると「毎」の字に見えてきませんか?


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