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ウォークの地図

明治京都の大事業「琵琶湖疏水」を辿る

琵琶湖疏水は明治23年(1890)に竣工してから、本年で130周年を迎えます。明治2年の東京奠都によって、産業は急激に衰退し、人口も激減しました。さびれた京都の復興策として実施されたのが、琵琶湖疏水という一大事業でした。

  大津閘門

閘門とは、船舶を高低差の大きな水面で昇降させる装置で、2つの水門の間に船を入れる閘室を持ち、大津閘門は主要部の構造は鉄の門扉を持ち、煉瓦や石で構築されている。南側に船を通行させる水門を設け、北部には堰門(制水門)を設けて、水量調整を行っている。当初の門は木製で、開閉には、人力で、4人がかりで動かしていたが、明治29年の暴風と大雨で琵琶湖水位が異常に上昇し、大津町が浸水し閘門の開放を巡って、京都側と大津側とで争いがおき、恒久的な鉄扉にすることとなった。その後、瀬田川の洗堰水路など調整施設が整い、鉄扉の必要性はほとんどなくなった。近くには、明治天皇が疏水を訪れた記念の石碑がある。明治23年4月の琵琶湖疏水通水式は、明治天皇、皇后ご臨席の下で開催され、その際、閘門の開閉をご覧になっている。


  第一トンネル洞門

琵琶湖疏水は、大津三保ヶ崎・京都蹴上間に三本のトンネルが掘削され、最初に造られたのが第1トンネルである。全長2436m。完成当時、日本最長で、鉱山以外では、竪坑を使って掘られた日本で最初のトンネルであった。3本のトンネルには6か所の出入口あり、各々の石造洞門には、政府の有力者たちの揮毫になる扁額が掲げられている。例えば、第1トンネル東口には伊藤博文筆の「気象萬千」、同、西口には山形有朋筆の「廓其有容」(西口洞門で説明)が挙げられる。
「気象萬千」(きしょうばんせん)とは、「様々に変化する風光はすばらしい 」という意味である。ちなみに、この扁額の文字は、トンネルに入り込む側、すなわち大津側は陰刻、それと反対に水が出ていく方の扁額は陽刻とされている。トンネルの各洞門のデザインも、向かい合うものが同一の構造であるなど、疏水全体に統一的なデザインが施されている。


  長等神社

西暦667年頃、天智天皇が近江大津宮へ遷都の折、都の鎮護として長等山岩倉に岩座谷の霊地に須佐之男命を祀ったのが始まり。後に園城寺(三井寺)の守護神として分けて祀られた大山咋大神(日吉大神)など五柱の主祭神を祀る神社として、繁栄と安定を願う多くの皇族や著名な武将に大切にされてきた大社である。1054年、庶民も参詣できるようにと長等山上より現在地に遷座する。南北朝時代に社殿が焼失するが、足利尊氏により再建されている。明治時代の神仏分離令の流れにより、園城寺から独立し、明治15年、長等神社に改める。本殿は全国的にも類例の少ない入母屋造向拝付五間社流造の社で、江戸初期の慶安、寛文年間に増改築されている。
楼門は三間一戸、檜皮葺、入母屋造りの構造で、明治38年の完成ではあるが、室町時代の古い様式にのっとった素晴らしい造りで、市指定文化財となっている。
また、境内には馬神神社(元は東海道筋の「札ノ辻」に鎮座)が祀られ、古くより旅人、諸人は道中の馬の安全を祈願し、最近は競馬、乗馬関係者、馬の愛好家、午年生まれの方の参詣が増えている。


  小関越え道標

「左り三井寺 是より半丁」「右小関越 三条五条いまく満(ま) 京道」「右三井寺」と刻む。大津市側の正式呼称は「コゼキゴエ」であるが、その他の地区では「おぜきごえ」と呼ぶ人が多い。
三井寺は西国三十三所観音巡礼第14番札所、いまくま(今熊野観音寺)は第15番札所で、制作は江戸中期制作の大津市指定有形民俗文化財になっている。1丁は約109mである。
隣の石柱は、大正元年に建立されたもので、「蓮如上人御舊跡 等正寺」「かたゝげんべゑのくび」と刻む等正寺の案内道標である。
(等正寺)峠に行く途中に、真宗の中興の祖、蓮如上人ゆかりの「等正寺」がある。蓮如上人が京都大谷の本願寺が焼き討ちされた時、親鸞聖人の木像を三井寺に預けて北陸に逃げた。旅から帰ってその像の返還を求めたところ、三井寺の宗徒が「人間の生首2つと交換しよう」と難題をふっかけた。これを聞いた堅田の漁師、源兵衛が自分の首を差し出すように父、源右衛門を説得し、切らせて差し出した。源右衛門は息子の首を三井寺に持って行き、自分の首もはねてもらうように言ったが、驚いた三井寺門徒は木像を返した。その後、源右衛門は巡礼の旅に出た。首は小関町の等正寺のほかに、本堅田の光徳寺、三井寺町の両願寺に今も祀られている。同じ人間の首がなぜ3つもあるのかは謎である。
(小関越え)山科〜大津宿間の旧東海道は2通りのルートがある。一つは本道である逢坂越え、もう一つはその北側を通る裏道(間道)で、逢坂越えを大関に例えて小関越えと呼ばれたそうである。
小関越えは、京都側から横木1丁目で旧東海道を北へ分かれ、小関峠を越えて大津宿札の辻(現 京町一丁目交差点)で逢坂山ルートの旧東海道と合流する約4kmの道程。中世以前の北陸道(北国街道とも、畿内から北陸へ通ずる古道)の一部分だという。京都から三井寺(園城寺)へ至る最短ルートだったことから、その参詣道としての一面を併せ持っていたようで、文政5年(1822年)に「三井寺観音道」「小関越」と刻む大きな道標が横木の分岐点に建てられている。

  峠の地蔵堂

小関峠の頂に地蔵尊が安置されている喜堂(よろこびどう)という御堂がある。そのルーツの詳細は不明だが、十数年前に大津に通じる道路の拡張工事が行われた際、草むらに放り出されていたのをこの地に安置された。それよりこの人里離れた峠へ毎日、供花をかかす事なく近郷近在からの参拝も絶えない。
延べ数千人の方々の一円からの御奉謝により ここに立派な御堂を建立される事となった。


  第1竪坑(シャフト)

1トンネルは、三井寺下と藤尾の両側から掘り進められ、同時に、藤尾から約740m(第一トンネルの全長の3分の1)の地点に第一立坑を掘り下げた。
その底から三井寺下、藤尾の東西両側の出入り口に向けて掘り進めることで切羽の数を増やし、工期短縮と完成後の通風を図っている。完成当時、日本最長で、鉱山以外では、竪坑を使って掘られた日本で最初のトンネルであった。坑内が狭いため、小規模のダイナマイト使用以外は、23人がかりでの手彫りで行われた。1立坑は、深さは約47m。地上から5.5mまでの坑道上部は直径5.5mの円形、それ以下の部分は3.2m×2.7mの楕円形になっており、完成まで196日を要した。トンネルは、想定以上の岩盤の硬さと湧き水の人力による汲み上げなど過酷な重労働、出水事故などで難航し、殉職者も多発し17名を数えた。
尚、嶋田道生が主導する測量は正確を極め、開通した時は高低差1.2mm、中心差7mmの違いしかなかったと伝わっている。田邊朔郎は、疏水工事を振り返って昭和14年に「一番苦しんだのは竪坑ですけれども、それと同時に工事上で安心を与えてくれたのがあの竪坑です」と語っている。
現在、第1竪坑の塔上はレンガが崩れるのを防ぐため金網に覆われ、立入禁止となっているが、将来は整備したうえで公園にするとも言われている。

  第2竪坑

寂光寺の手前に、2竪坑を設け、1トンネルの西口の採光、換気のために設け、現在、通路を少し離れた民家の裏庭にひっそりと残っている。第2竪坑は深さ22.5m、上口径2.6m、下口径1.4m、地上部高さ4.5mと第1竪坑に比べてコンパクトである。
工期も、技術上のトラブルもなく、第1竪坑の5分の1で竣工した。

  第1西口洞門

1トンネル出口の両側には意匠を凝らした石造の洞門がある。上部の扁額には山縣有朋筆の「廓其有容(かくとしてそれかたちあり)」(悠久の水をたたえ,悠然とした疏水のひろがりは,大きな人間の器量をあらわしている)が陽刻として掲げてあり、ここも12か所ある国の史跡に指定されている。
尚、山縣有朋は長州藩出身で、陸軍、内務大臣、元帥、元老として明治政府を主導した。洞門付近は、春は桜、秋はモミジが素晴らしい。


  緊急遮断ゲート

阪神淡路大震災の経験を活かし、大地震による堤防決壊時に水流を自動停止する緊急遮断ゲートが平成111999)年に設置された。
洛東用水取水口
さらに西に向かうと、疏水に架けられた最初の橋である藤尾橋がある。赤レンガと石造りの土台は当時のままで今も現役である。
すぐ下流にはJR線を越える跨線橋と洛東用水取水口がある。取水口からの水路は山科東部地区の灌漑用水として利用され、醍醐地区まで達しており、田植え稲作時期は、現在も活用されている。


  一燈園

一燈園は、1904(明治37)年、西田天香(宗教家)によって設立された。琵琶湖疏水完成後の昭和3年に左京区鹿ケ谷より現四ノ宮に移転してきた。
現在、「大自然に活(い)きる」という天香の信条のもと、約10万坪の広い敷地には、約300名の人が無報酬奉仕で生活している。敷地内を第2疏水の埋立水路が通っている。柳山橋は、建設当時には十禅寺橋と呼ばれていた。
一燈園資料館「香倉院」には、倉田百三、河井寛次郎、棟方志功などの作品が展示されている。近くに学校法人燈影学園が運営する一燈園小、中、高校がある。


  四ノ宮船溜まり

流は緩くなり池のような船溜りとなり、かっては、舟運の荷揚げや人の乗り降り、船頭の休息場所などの目的で作られた。四角い形から「重箱ダム」とも呼ばれていた。特に、周りの景色や自然を愛でる花見舟などの行き交うのぼり、くだりの舟の待避所として人気があった。舟運は、長い間休止していたが、平成30年から、春、秋「びわ湖疏水船」として復活し、諸羽トンネル(長さ522m)の入口に位置し、疏水の中間点としての乗降場となっている。山科地区には船溜り(ダム)が34か所あったが、「重箱ダム」は大津からの最初の船溜りであった。
(観光船運航)昭和269月、大津から山科までの砂の輸送を最後に姿を消した疏水運航船は、以来、舟運の復活を要望する声は幾度となく上がったものの実現に至らなかった。そうした中、201312月、京都、大津両市長参加による舟下り試乗会を契機に、広域的な地域の活性化を目的として、民間企業、観光協会、商工会議所そして両市の行政が知恵を出し合う形で実現にこぎつけ、平成30年(2018年)春からは、「びわ湖疏水船」として、本格的な運航がスタートした。


  第1疏水旧水路跡

昭和46年〜49年にかけて、国鉄湖西線工事により諸羽トンネルが建設され、現在の水路に変わった。旧水路は埋め立てられ、遊歩道、ジョギングコースとなったが、現在も旧水路の跡が残っている。遊歩道から南側が開け、山科盆地がよく見える。
(疏水公園)山科疎水公園は、毘沙門堂に行く途中にあり、この一角は、風致保存地区で、きれいな菜の花や桜の花の白と黄色が映える4月の散策は格別である。
船積荷降ろし場所
昭和49年の湖西線開通前までは、「諸羽舟溜り」、別名「ひょうたんダム」があり、「山科疎水公園」となっている。「諸羽舟溜り」は、以前は、主に物資の揚げ降ろしや船頭の休憩ゾーンであったと言われている。
戦後、山科の小学生の水泳場として利用されていた。公園の東側に疎水にかかっていた3号橋のなごりが見られる。ひょうたんダムの東側にあった橋が湖西線工事により撤去され北側の土台だけが残って露出している。なぜこの地に橋がかかっていたかというと、信仰の対象となっていた諸羽山へ登る道への橋であったそうである。
また、途中にある鉄筋コンクリート造形物は明治4145年かけて建設された第2疏水埋立水路の天井部で、作業員の製作訓練用に製造されたものである。(底辺の内径約4m、内部の高さ約2mのアーチ状のコンクリート製)
尚、第2疏水は全線が暗渠の中を通っていて、主に水道用に水を供給している。


  安朱橋(4号橋)

安朱橋は毘沙門堂参道が疎水とクロスする場所に架かっている。橋自体は「第4号橋」として、疏水開通以来あったが、2000年の改修工事でコンクリート化された。この安朱橋東側南岸には、現在も「仕切り版用コンクリート」と繋留用アンカーが残っている。
また、安朱橋の北岸沿いに、「母子地蔵」と呼ばれる地蔵が祀られている。「母子地蔵」は、疏水に落ちて水死する子供が相次いだことに胸を痛めた善兵衛という船頭さんが、安朱の住民の協力を得て、疏水のほとりに地蔵堂をつくったものだと伝えられている。昭和45年まで、今のように柵はなかったようである。


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