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ウォークの地図

「川と共に発展してきた街・梅津」

・・・もう一つの京の入り口だった・・・

第171回 京都史跡ウォーク

  郡城跡(こおりじょうあと)

戦国時代、桂川沿いには多くの城(城館・砦・構え)が築かれた。記録に残るものものとして、東岸に梅津城・郡城・川勝寺城、西岸に嵐山城・物集女城・勝竜寺城などがある。
郡城は、戦国期の土豪中路氏によって築かれた。現在、遺構など残っていないが、衣手神社南側、衣手公園東側の道路が堀跡と推定される(城域約1a)。この辺り、「城ノ内」「ジョウヤブ(城藪)」「カンマエ(構え)」などと通称されている。
戦国初期、郡村は2度の戦禍(大永7年(1527)桂川の戦い、天文2年(1533)法華宗徒の西郊11ヶ村焼討ち)に合った。
天文21年(1552)には、三好長慶と細川晴元が争い、三好方に属していた中路修理が城を自焼し東山霊山城へ逃げている。『言継卿記』。中路氏は三好長慶没後は三好三人衆に属した。郡城は永禄11年(1568)の織田信長入京後に廃城となった。


  衣手神社(ころもてじんじゃ)

古くより郡村の産土神として開拓の神•玉依姫命を祀る三宮神社があった。桂川の氾濫により度々流出していた。現在の本殿は延宝7年(1679)再建、拝殿は嘉永5年(1852)建立。明治8年(1875)松尾大社境外末社となり「衣手神社」に改称した。松尾祭神幸祭では神輿巡行の御旅所となっている。
衣手神社の旧地は、かつて三大の森(糺の森、藤の森、衣手の森)の一つで、歌枕「衣手の森」として有名である。衣手(衣出)は袖を意味しその由来は、森を衣にたとえ四季の移ろい紅葉の美しさを形容したためともいう。
山姫のもみぢの色をそめかけて錦とみする衣手の杜    相模(女流歌人)

ほととぎす声あらわるるころもでのもりの雫を涙にやかる 藤原定家
  
秋ごとに誰か染むらむ主しらぬからくれないの衣手の杜  藤原顕輔


東衣手遺跡 衣手神社のすぐ南側の住宅地で、昭和61年に7世紀初頭の合せ口甕棺墓が発見され、須恵器()が出土したので東衣手町遺跡と命名された。甕棺の大きさは、高さ約50cm、最大径約40cm、口径約15cmの2つの甕の口を合わせたもので、10歳前後の子供の人骨片約30点が発見された。堤防の無かった太古の桂川は洪水の度に川筋が変り、中洲が出来ては消えていた時代であった。この地に集落が存在したのは洪水で中洲が成長して小高い森(衣手の森)となり人が住み着くようになったと考えられる。


  お半・長右衛門供養塔

この供養塔は大小二つの自然石でできている。表面に「法華塔」、裏面には「文化丙年(1816)梅津講中」と刻まれている。おそらく桂川の氾濫による犠牲者を供養するために地元の人達により建立されたものと思われる。
後になって「お半・長右衛門の供養塔」と言われるようになったのは、義理人情に縛られた二人が桂川で心中するという悲恋物語「桂川連理の柵(れんりのしがらみ)」の主人公お半・長右衛門によるところが大きいのではないか。


桂川連理の柵
 お半は柳馬場御池上る虎石町の信濃屋の娘13歳。長右衛門は近所の呉服屋の番頭45歳。商用で大阪に行く長右衛門は、信濃屋にたのまれ娘お半を同伴した。桂川で渡し舟に乗ると船頭に所持金を奪われ二人は桂川に投げ込まれ、遺体が上野橋東岸に流れ着いたという事件が起こった。(宝暦11年(1761)4月12日)。それから15年後、菅専助(江戸後期の浄瑠璃作家)はこの事件を題材として、人形浄瑠璃「桂川連理の柵」密通心中事件に戯曲化、安永5年(1776)大阪北堀江座で上演され大人気を博した。
お半・長右衛門の墓は、中京区新京極の誓願寺墓地にある。


  梅津の筏浜

  千年を越えて都へ物資を運んだ川港(津)
延暦
13年(794)平安京造営の際、大量に必要となった材木の多くは丹波地方から桂川を筏に組んで運ばれ、この地(桂・梅津・嵯峨)で陸揚げされた。さらに、豊臣秀吉は桂川の水運を重要視し、朱印状を与えて諸役を免除するなど筏師の保護を行い、角倉了以の保津川開削(1606)により、農産物や薪炭が運べるようになり梅津浜の役割が高まった。材木の陸揚げ・輸送商であった旧家に残る古文書に筏浜の様子が書かれている。

京都へのもう一つの入口
江戸時代に入り、山陽・西海・南海の藩と京都を結ぶ航路(瀬戸内海〜淀川〜桂川)が通じ、梅津の浜が京都の乗船地となった。また、西国街道から京都に入るとき、桂川を馬や徒歩で渡るのに、浅瀬の多い梅津の河原が最適地であったと考えられる。

又、保元の乱で重傷を負った左大臣藤原頼長が嵯峨から奈良に逃れたコースとして「梅津から舟で下り、巨椋池を経て木津川をさかのぼり奈良に逃れた」の記録があり、奈良との水上航路でもあった。


③友禅流しの川に
明治に入ると、桂川の水上航路は鉄道に変り、梅津の浜の役割は一変する。染色工場が軒を並べるようになり、梅津の河原は友禅流し一色となる。

  梅津大神宮社(神明社)

総本社 皇大神宮(伊勢神宮の二つの正宮のうちの一つ内宮 式内社)
ご祭神 天照大神(皇祖神の一つ、太陽の神)、豊受大神(食物・穀物を司る女神)
大神宮社」は古より「神明社」と呼ばれ、東梅津村民より崇められてきた神社で、今でも「おしめさん」と多くの人々が親しく呼び信仰している。

長福寺の記録に、神明社のことが「今は村社にて氏神なり、梅津清景皇大神宮を尊び毎月伊勢に参詣し遂に此れ勧請せりと、旧古樹陰林たる大林なりしが維新以後伐採開拓して僅かに社地を存するのみ」とある。

明治4年の上知令「寺社の境内を除く領地や除地の上知を命じる」により縮小した。現在の社殿は、昭和32年の火災により焼失、その後再建されたものである。


  梅津城跡

梅津城は、郡城の北西1kmに位置する。両城が歴史に登場するのは、三好政権の時代で、永禄4年(1561)7月28日三好長慶と六角氏の合戦で、三好義興(長慶の嫡男)が梅津城に在陣しており三好方の城館として機能していたことが分かる(足利季世記、雍州府志)。
城は、徳川家康の「一国一城令 元和元(1615)年」により廃却された。城跡は残らないが、有栖川のすぐ西側を流れる水路が梅津城東端の堀跡とされ、かつては南側にも堀跡と思われる水路が流れていた。
城域に東接する小字名を「構口(カマエグチ)」といい、有栖川にかかる橋は城の正門に通じる橋で「構口橋」と言う。城域にあたる地域は明治4年までは「堅丸町」と呼ばれていた。本丸、二の丸などと同様、「堅固な廓」を意味して名付けられた町名と考えられる。


  雨乞い九郎兵衛の像

像の銘板に『西暦一三三八年 暦応年代 旱天が続き、村民大いに困窮す。九郎兵衛、龍の𠮷を得て龍を祭り、以て雨を祈る。是より風雨順となり、五穀豊熟す。このことを以て村人、九郎兵衛を雨乞い九郎兵衛と称す。九郎兵衛の末裔 従七位勲4等四旭 小山常芳記八十一才』と記されている。

桂川の氾濫と干ばつ 桂川流域は古代から長雨や集中豪雨によって川が氾濫し、土地は水浸しとなって、安定した農業が営めなかった。渡来民族の秦氏の高度な土木技術により、桂川に巨大な井堰(葛野大堰)が作られ、洪水の防止と農業用水の確保の目的を果たした。 
梅津地区は、桂川から5本の用水路を引き込み不毛の地を田園に変え、都への食料供給地へと発展した。しかし、日照りが続くと桂川の水位が下がり用水は渇水となり、龍神に雨乞いをしたという伝説が残っている。


  権六(伊藤)さん宅のまたげ石

梅宮大社の「またげ石」は子宝祈願としてよく知られているが、江戸時代から続く梅津村の旧家にも「またげ石」が祀られている。その石は長福寺境内の土斎坊塚の上に在ったが、夢に現れて「權六さんの家に戻りたい」と言うので權六さん(伊藤家)に戻したと伝わる。伊藤家の庭木の下に数個の丸みの石が置かれていて、その中の2個が御神体と伝えられ「またげ石」と呼ばれている。「子宝に恵まれない女性がまたぐと子が授かる」と伝わり、最近もその噂を聞いて遠方からもお参りさせて欲しいと訪ね来る人があるという。


  梅津左衛門石塔

この石塔は、梅津氏第18代領主•梅津左衛門尉清景の宝筐印塔(塔高2M)と伝わる。この地は長福寺塔頭大崎寺跡に当たる。
 大崎寺は、梅津左衛門尉清景が創建した梅津氏の菩提寺で、「貞和年中(13451350)に建つる所にして梅津清景の墓ありしなり」との記録が「京都府寺志稿」「大梅山長福寺略法」にある。長福寺に残る「大梅山長福寺全盛古大図」には、長福寺門前に「大崎寺」と「古雲是球禅門」が描かれている。「古雲是球禅門」は梅津清景の宝筐印塔との説がある。
大崎寺は明治4年に廃寺となり、その跡に梅津小学校(明治9年〜明治35年)と役場が置かれ、その後、梅津小学校は現在地に移転し、現在は五輪塔だけが残るのみとなった。

石塔の外の道角に「梅津左衛門尉舊跡」とかすかに読める小さな石碑が立っている。


  林家の七つくど

林家は江戸時代から続く旧家で、当主は「勝之氶」の名前で長福寺役人や東梅津村の庄屋を務める一方、材木商を営み、丹波地方から桂川を筏で運ばれる材木の揚陸、貯木、京都への搬送を業としていた。

7つくど 梅津の浜からあがった材木を京の都まで届ける役割を担っていた林家には、たくさんの職人や人足の食事を賄うための「7つくど」がそのままの姿で残されている。今も地域のイベントなどで使われることがある現役の調理場である。

天保11年(1840)の林家住宅建築許可申請 この申請書と現住宅を比較すると建て直し住宅であることが分かり、その違いから当時  の建物様式の変遷や、町奉行所の検分の様子が分かる日本建築史の貴重な資料。

嵯峨・梅津・桂の材木仲間定書 宝暦8年(1758)に、嵯峨・梅津・桂の材木商が取り決めた文書が林家に保存されている。当時の35軒の材木商が記録されていて桂川東岸の材木商の実態を知る貴重な資料。


  長福寺

宗派 : 臨済宗・南禅寺派 (天台宗→臨済宗) 
本尊 : 阿弥陀如来 山号: 大梅山(だいばいさん)
創建 : 真理(しんり・尼僧)仁安4年(1169

長福寺は、桂川左岸の梅津のほぼ中央に天台宗の寺院として、梅津庄の領主梅津氏の後裔である尼僧真理(しんり)によって仁安4年(
1169)に創建された。
暦応2年(
1339)、梅津氏は、高僧として知られていた月輪道皎(げつりんどうこう)を迎え、これまでの山門との関係を解いて禅寺として出発した。月輪道皎は花園天皇から深く帰依を受けており、寺領の寄進を受けるなど、地方領主の氏寺という性格から脱却し、北朝方の寺として寺運は隆盛、室町時代には禅寺十刹に数えられた。
しかし、応仁の乱によって荒廃。その後、山名宗全によって一応の再建はされたものの戦国時代を通じて長福寺の窮状は長く続いた。

その後、全国統一を成し遂げた豊臣政権によって天正13年(
1585)に寺領650石が与えられ、天正20年(1592)には諸山(五山制度に基づく寺格の一つ)に列せられたことによってようやく安定した地位を得ることになった。
しかし、徳川家康が政権を握ると、その宗教政策により長福寺の寺領の半分に近い約300石が取り上げられて南禅寺の寺領地とされ、その後、南禅寺の末寺となって明治維新を迎える事になった。
そして、明治4年(
1871)1月5日「社寺の境内を除く領地や余地の上知を命ず」といういわゆる「社寺上知令」によって寺の境内地域を残すのみとなり、現在の姿に至る。
最盛時の寺内は、北・東・西を桂川水系を利用した堀によって囲まれ、南は桂川沿いの道によって限られていた。寺内中央には典型的な禅宗伽藍が建ち並び、伽藍は南から総門・山門・仏殿・法堂・方丈が北に展開、東に脇門(現在の表門)が建っていた。

塔頭が、寺内に
18ヶ寺、東門前に10ヶ寺、合計で28ヶ寺にも及ぶ威容を誇っていた。現在の境内には、仏殿(元禄8年.1695.建立)、方丈(寛文8年.1668.建立)、鐘楼、薬医門、庫裏などがあるだけである。

油かけ地蔵(あぶらかけじぞう) この石仏(阿弥陀立像)に油を掛けると諸願成就すると信仰され全身が油にまみれて黒く光っていたと言わるが、今では油を掛ける人も無く、白い肌の石のお地蔵さんとなっている。京都市には、「油かけ地蔵」と呼ばれているものは他に2か所存在する。(伏見区下油掛町西岸寺境内、右京区嵯峨天龍寺油掛町)
像の銘板に『西暦一三三八年 暦応年代 旱天が続き、村民大いに困窮す。九郎兵衛、龍の𠮷を得て龍を祭り、以て雨を祈る。是より風雨順となり、五穀豊熟す。このことを以て村人、九郎兵衛を雨乞い九郎兵衛と称す。九郎兵衛の末裔 従七位勲4等四旭 小山常芳記八十一才』と記されている。


  梅津製紙工場跡

京都は千年もの長い間、日本の首都としての役割を果たしてきたが、明治2年(1869)の東京遷都の大激動により伝統産業の従事者を始め多くの人々が東京へ移住し急激な人口流出が起き都市機能の衰退に陥った。新政府のもとで、京都府は欧米の近代的商工業を積極的に取り入れることで京都の町を再生させようと積極的な殖産興業政策を実行した。その一環事業として、日本最初の洋紙製紙工場が京都の梅津に建設され、明治9年「梅津パピールファブリック」として操業開始した。
明治天皇は京都を離れるに当り、産業基立金として10万円を下賜、京都府より15万円を合わせて25万円を元に日本最初の洋紙工場が建設された。
京都の殖産興業政策は、第2代京都府知事植村正直、明石博高勧業課長、山本覺馬顧問の3名が中心を担った。製紙工場が、京都でドイツ方式製造に決定したのは山本覺馬の尽力によるところが大きい。
明治9年開業式では、沿道一帯黒山の賑わいで、露店や屋台が並びお祭り騒ぎの地元をあげての歓迎であったという。
明治初期の洋紙の需要に大きく貢献したが、その後、磯野製紙場、富士製紙梅津工場、王子製紙梅津工場、日本擬革会社、日本加工製紙京都工場と変遷したが昭和46年(1971)に閉鎖され、95年の歴史を閉じた。
東京の飛鳥山公園にある「紙の博物館」に梅津製紙工場の「PAPIER FABRIK」の門扉、明治天皇行幸の碑、高札などが展示されている。


  梅宮大社

当社は奈良時代、橘氏の氏神として綴喜郡井手に創祀され、平安遷都後に橘嘉智子(嵯峨天皇の檀林皇后)によって梅津(産む地)に遷座された。 
祭神は本殿(さけ)(とけの)(かみ)大山祇(おおやまずみ)(のみこと))、(さか)解子(とけこの)(かみ)木花之開耶姫(このはなさくやひめ))、大若子(おおわくこの)(かみ)瓊瓊(にに)(ぎの)(みこと))、小若子(こわくこの)(かみ)(産()()()(みの)(みこと))を祀る。相殿には嵯峨天皇、檀林皇后、仁明天皇、橘清友公。摂社右の若宮社に橘諸兄(もろえ)、左の護王社に橘(うじ)(きみ)公、橘逸勢(はやなり)公を祀る。大山祇神は娘の木花之開耶姫が彦火火出見尊を無事に出産したことを喜び、「天甜酒」を造って祝ったことから酒造の祖神とされ、開耶姫は瓊瓊杵尊に嫁いで一夜のうちに懐妊したことから子授・安産の守護神とされている。

檀林皇后は皇子に恵まれなかったが、当社に祈願して皇子(仁明天皇)を産んだことから、当社に伝わる「またげ石」は子宝に恵まれると信仰されている。

当社は、歴朝の崇敬厚く「延喜式」神名帳には名神大社に列せられ、平安時代の「二十二」社に列せられ、年2回の梅宮祭が勅祭として行われた。

その後、橘氏の衰退と中世の戦乱や元禄の火災、台風でたびたび消失、再建を繰り返してきた。現在の本殿、拝殿は文政年間(18281830)の再造とされる。維新後「梅宮神社」として官幣中社に列したが、昭和26年社名を「梅宮大社」と改称し現在に至っている。


梅宮大社の伝承、逸話
1、橋本経亮(つねあきら)邸宅跡 江戸時代の宮中に努めた有職故実の国学者。
2、百人一首「夕されば 門田のいなば 訪れて 芦のまろやに 秋風ぞふく」 
神苑の「さくや池」畔にある茅葺屋の茶席「池中亭」は、大納言源経信が藤原(もろ)(かた)の山荘に招かれてこの歌を詠んだ「芦のまろや」の古里である。
3、影向石 紀州熊野より三羽の烏が飛来して石に化したという。三石ともいい護王社の西側にある。
4、梅津六斎念仏 重要無形民俗文化財 毎年8月最終日曜日、境内で嵯峨天皇奉納六斎として行われる。早いてんぽの「四つ太鼓」、糸を吐く「つち蜘蛛」、白布のたなびく「越後さらし」等一見の妙あり。
5、神苑の梅 京都で一番古い名所と言われ、40550本の梅の木ある。伝承では本居宣長が献木したと伝わる。花菖蒲、八重桜、つつじ、アジサイ、水仙、椿なども多い。
6、猫神社 20年程前から住み着いた10数匹の猫が生息する。写真家岩合光昭の「世猫歩き」TVで紹介された。
7、橋本以行(もちつら) 海軍中佐伊58潜水艦艦長 平成121025日死91「伊58潜水艦」橋本艦長は、昭和20年7月30日フィリピン海上で米軍重巡洋艦インデイアナポリス(テニアン島基地に原子爆弾を降し帰途中)を発見し撃沈した。その原子爆弾はテニアン島でB29に搭載、8月6日広島へ、9日長崎へ投下された。インデイアナポリス号乗組員1,197人の約300人戦死、約900人は海に投げ出され多くはサメに襲われ、救出されたのは約300人という。インデイアナポリスのマクベイの艦長は軍法会議で責任を問われ、その証人として橋本艦長も出廷した。2016年に「パシフィック・ウオー」として映画化され、橋本艦長を俳優山内豊が演じている。



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