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ウォークの地図

秀吉がつくりし寺町通の盛衰

令和元年12月15日(日)の歴史ウォークは第170回、122名の参加があり、無事終了いたしました。

豊臣秀吉は京都を城郭都市に大きく変貌させる。聚楽第を中心に身分や職業別に集住させた町割りで、鴨川の右岸に寺院を集めた。
鞍馬口から五条の南まで、古くは京極通りと名付けられたストリートが、桃山時代から寺町通りと呼ばれるようになった。
町割りは税の徴収を用意にする為と、寺院と町衆の結束を分断する為ともいう。また「御土居」という巨大な城壁で取り囲んだことで、しばしば起こっていた鴨川の氾濫から都を護った。

江戸時代中期になると度々の火災で他に移転する寺院も増え、また通行の不自由さから御土居が崩され河原町通りの東に大名屋敷が並ぶようになる。
明治になって天皇や公家が東京に行幸し、廃れた寺町に新京極通りが作られた。さらに四条通が拡張され、寺町通りも大きく変わりった。ビルの谷間に寺院がある寺町通りに、平安、鎌倉、室町、桃山、江戸、明治と歴史の流れを変えた事績が残っている。

  下御霊神社

荒魂の伊予親王と母藤原吉子、祟道天皇、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂、火雷天神(菅原道真)、和魂の吉備聖霊(吉備真備)の八所御霊を祀る。上御霊神社と御霊が異なる。
下出雲寺(廃寺:中京区)の鎭守として仁明天皇(833850)の創建で、上御霊神社の南にあった。後に新町近衛に移され社殿は、足利義持が寄進したと伝えられる。神階は南朝99代後亀山天皇(南朝:13831392)により正一位が贈られ、御所の産土神となる。その後、豊臣秀吉の町割りで現在地に移転した。
霊元天皇の崇敬を受け、享保13年(1723)の天皇75歳の時、修学院離宮からの帰路に参拝され、宝永7年(1710)の願文「朝廷復古之儀」(幕府批判・重文)を納めたという。相殿に天中柱皇神として霊元天皇が祀られているのは、神主の出雲路氏と親交があったからと伝わる。
現在の社殿は寛政2年(1790)、光格天皇が内待所(御所内の賢所―八咫鏡を安置していた建物)を寄進。門は旧建礼門を移し、檜皮葺を瓦葺にした。
垂加社は山崎闇斎を祀る。神官の出雲路信直氏は闇斎の弟子で、後継者として後進を指導し、闇斎の遺墨遺品を多く保管する。末社は宗像社、猿田彦神社、天満宮、稲荷社がある。
横井小楠遭難地(石碑)下御霊神社前 幕末の思想家で熊本藩士。公武合体、通商開国論で多くの志士の共感をえた。維新後、新政府の制度局判事、参与に進み、太政官に出仕する。明治2年1月5日、御所から退出して駕籠で帰宅途中、同地において新政府の方針に不満を抱く十津川郷士など6名の刺客から短銃を撃ち込まれ、駕籠から出て首を討たれた。首は横井小楠の若党が取り返した。
荒魂(あらたま、あらみたま)、和魂(にきたま、にぎたま、にきみたま、にぎみたま)神の霊魂がもつ2つの側面。疫病などは荒魂の仕業と考えられた。

吉備聖霊 吉備真備 695〜宝亀6年(775) 藤原仲麻呂の乱を鎮撫する。
藤原広嗣 不明〜天平12年(740) 大宰府で吉備真備らの排除を求めるが謀叛と疑われ召喚されたことで、反乱し捕らえられ肥前松浦で処刑された。
祟道天皇 天平勝宝2年(750)〜延暦4年(785) 光仁天皇皇子、早良親王、桓武天皇の弟で立太子。藤原種継暗殺を疑われて食を絶ち自害する。
伊予親王 延暦2年(783)〜大同2年(807)桓武天皇第三子、平城天皇に謀反を疑われ、母吉子と川原寺に幽閉され自害する。
藤原吉子 桓武天皇夫人。夫人は4人いて、皇后ではない。
橘 逸勢 延暦元年(782)〜承和9年(842) 嵯峨上皇崩御後謀叛を企てたと伊豆へ流罪、途中の駿河で病死。三筆(空海・嵯峨)の一人。
文屋宮田磨 生没不明 承和10年(780)謀叛を企てたと伊豆に流され没する。
火雷神(ほのいかづちのかみ)菅原道真 承和12年(845)〜延喜3年(903)とも謂われるが、神社創建の時期が合わない。賀茂別雷神の父?
上御霊神社…当初は祟道天皇・伊予親王・藤原吉子・文屋宮田磨・橘逸勢・藤原仲
成の六所だったが、伊予親王と藤原仲成が外れて他戸(おさべ)親王と井上大皇后に代わり、後に火雷神と吉備聖霊が追加された。



  行願寺・革堂

一条小川新町にあり、一条北辺堂と呼ばれていた。行願寺としての草創は、行円が寛弘元年(1004)に建立供養を行い。三蹟の一人藤原行成(小野道風・藤原佐里)が寺額を書いた。
本尊の千手観音は行円が、夢詫によって賀茂社の神木で刻んだと伝えられ、余材は善峯寺の本尊(千手観音―源算上人作)になったという。
開山の行円はもと豊後の猟師で、山中で射止めた雌鹿の腹中から小鹿が生まれるのをみて、殺生の身を恥じて、比叡山で仏道修行に励み、常に牡鹿の革をまとっていたこで革仙人と呼ばれ、寺も革堂と呼ばれる。中世には町衆の形成で下の六角堂、上の革堂と呼ばれて、信仰と町堂(風呂あり)として有事の際の集合場所になった。
秀吉の町割で寺町荒神口に移ったが、宝永(1708)の大火で類焼し現在地に移る。
現在の本堂は、現建物は文化12年(1815)の再建、正門は禁門の変で焼失、石造りの五輪塔は行円(平安時代中期)作といわれる。鐘楼(市有形)は、文化元年(1804)の建築、寿老人神堂は桃山時代と伝わる。
幽霊絵馬 文化8年、近江のお文が質屋八左衛門の子守りになる。御詠歌「花を見て 今は望む革堂の 庭の千草も盛りなるらん」を口ずさむ。質屋は法華経で、折檻して殺し庭に埋め、お文の両親には男を作って家出したと弁償を迫る。両親が革堂に籠るとお文が夢に現われ真実を語り、母にもらった手鏡を置く、その時の絵に手鏡を添えた絵馬が奉納され、御開帳が六地蔵めぐりの82224日にある。


  寂光寺跡

妙泉山と号する顕本法華宗の寺院。天正6年(1578)に日淵上人により創建され、初めは久遠院と号し、室町出水にあったが、秀吉の町割りで寺町に移り、宝永の大火(1708)で仁王門通東山西入に移転した。
当寺二世の日海(15591623)は、碁技を仙也から学び。寂光寺の塔頭「本因坊」に住まいしていた日海は信長・秀吉が囲碁の名人と評された。本能寺の前夜に、日海は鹿塩利賢と御前試合をするが、三却ができ無勝負になる。徳川家康の命で本因坊算砂(さんさ)と改名して、幕府の碁所をまかされた。
本因坊の名称は、碁家家元の地位を保ち、技量卓抜な者が襲名継承されることになった。二世算悦、三世道悦を経て、四世道策の時、本因坊は京から江戸に移る。二十世秀哉が昭和11年、名跡を日本棋院に譲り渡し、「本因坊戦」が誕生した。


  妙満寺跡(現市役所)

法華宗の寺院で、明治3年に上知令で寺域を市役所に削られ、昭和45年に岩倉播枝に移転した。
康応(こうおう)元年(1389)北朝後小松天皇の時、日什大正師(にちじゅうだいしょうし)が室町六条坊門に創建、その後東洞院綾小路、その後堀川綾小路に移転。天正11年で寺町に移転した。天明大火、元治大火で羅災した。
塔頭は本覚院、正行院、延寿院など15寺。成就院には雪庭があった。
間部詮勝寓居跡 間部は越前鯖江藩主、天保9年から11年まで京都所司代を務めたのち老中に転じたが、老中水野忠邦と意見が合わず失職。安政5年井伊大老の起用で老中になり、安政の大獄を指揮した
孝明天皇から水戸家へ直接に幕政改革(日米通商条約調印の叱責、公武合体、攘夷推進)を指示する勅諚の対策と条約勅許申請(条約調印・兵庫開港)で入京し、所司代酒井忠義と安政の大獄を執行する。
間部詮勝 文化元年(1804)〜明治17年(1884)安政の大獄で井伊直弼は赤鬼、間部は青鬼と呼ばれた。吉田松陰は間部の暗殺計画を自白し、伝馬町牢屋敷で斬首された。
日什大正師 比叡山の学頭で玄妙。故郷会津で日蓮大聖人に触れ67歳で門下になる。


  本能寺

応永22年(1415)に日隆(日蓮上人の弟子日朗から数えて5代目)が油小路高辻付近に建立し、もとは本応寺といった。
日隆は、叔父にあたる日存と日道の妙本寺(京都の法華宗の最初の道場)の争いから分れて独立したので、妙本寺からの妨害で寺は潰された。
永享元年(1429)豪商小袖屋宗句(山本宗句)の援助で内野(千本京極付近)に第二の本応寺を建てた。されたが、5年後に如意王丸を願主に六角大宮に建物を移して本能寺と名を改めた。
天文5年(1536)の天文法華の乱で法華宗21ヶ寺が山門衆に焼かれ、再建を禁止され泉州堺に移転した。天文11年(1545)に許されて、日承が四条西洞院(本能寺小学校付近)に約6万坪の敷地を得て、堀を設け土塁を築いて、堀川の水を引いた寺でさながら城郭のようであった。
天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀によって焼失、伽藍を再興したが、文禄元年(1592)秀吉の町割りによって現在地に移転した。
その後も天明の大火、元治元年の蛤御門の変で焼失し、明治の上知令で寺域の大半を失う。現在の本殿は昭和3年の建築で、6度の火災で「能」の「ヒヒ」と重なるのを忌み嫌い、崩し「去」になった。(入口の石碑)
織田信長の墓所 信長の愛刀が納めてあるという。他にも大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院、阿弥陀寺、西光寺、大雲院などが信長の菩提を弔っている。
本能寺の変 天正10年(1582
517日 備中高松城を水攻めしていた羽柴秀吉が、信長に援軍を要請した。信長は、近江にいた明智光秀や蒲生氏郷などに、出陣を命じる。
526日 近江坂本城を出陣した光秀が、丹波亀山城に入る。
527日 光秀は水尾の里から愛宕山に登り、「愛宕百韻」の連歌を行う。
光秀「ときは今 あめが下しる 五月哉」の真意は不明ながら詠む。

行祐「水上まさる 庭の夏山」

紹巴「花落つる 池の流れを せきとめて」

528日 光秀は亀山に戻り、出陣に向けて13千人の軍勢を整える。
529日 信長がわずかな供を連れて、安土城から本能寺に入る。
601日 午後4時頃、光秀は亀山城を出陣する。
午後8時頃、光秀は篠村八幡宮で齋藤利三や明智秀満の重臣のみに、謀
叛の意志を伝えたという。(亀山城で伝えた説もある)
午後9時頃 老ノ坂手前の王子で軍を二手に分ける。
一手は唐櫃越で、峯の堂、松尾を抜け四条大路を行く。
午後11時頃、老ノ坂を超えたところで光秀は、本軍を小休止させる。

602日 午前2時頃、桂川を渡ったところで、「敵は本能寺にあり」と宣する。
午前4時ごろ、光秀が本能寺を取り囲む。
本堂と客殿に放火しながら、信長の寝所の奥書院に進む。
信長は明智の謀叛と聴いて「是非に及ばず」と述べた。

613日 光秀は山崎合戦で、秀吉に敗れ、小栗栖で殺害されたという。
信長と本能寺の関係 本能寺は鉄砲と火薬のルートを持っていた。ポルトガルが種子島に漂着した時、通訳は法華宗日隆の孫弟子が、船の中国人と筆談した。
光秀が本能寺の変を起こした理由は、今も謎とされている。

怨恨説 波多野兄弟を磔刑にしたことで、人質の母親が殺された。
四国の長曾我部と和平交渉を進めていたのに、四国攻めをされた。

安土城で徳川家康の饗応役を外された。

野望説 一度は天下を獲りたい。(ノイローゼ説)

黒幕説 羽柴秀吉、徳川家康、足利義昭、正親町天皇など


  鳩居堂

寛文3年(1663)初代熊谷直心が本能寺門前で薬種業を開業したのが始まり、屋号は儒学者室鳩巣が命名した。書画やお香の店。
幕末の7代当主熊谷久右衛門直孝は、幕末の志士(桂小五郎、武市半平太、頼三樹三郎、梁川星巌)と交わり、志士のパトロンとして経済的な支援をしている。官軍の懇請に応じて多額の軍資金を供出し、また幕府にも協力して戦災者の救援にも尽くしている。
八・一八政変では長州藩士に旅費を与え、禁門の変には長州の天龍寺の陣に塩干物魚や野菜を大量に送り込む。徳川慶喜が大坂に落ちてからは、支援が途切れた御所に千両収めた。また禁門の変で焼け出された難民の為に、数千両を拠出し、家族や奉公人数十人を動員して近所の妙満寺の救恤所(きゅうじゅつしょ:市内6所の1つ)を引き受けた。また鳥羽伏見の戦の後も難民救済に当たっている。
兵火が収まった後、庶民の為の学校を設けることを考えて、私財で図書を購入して政府に寄付し、飢饉救済事業や種痘所「有信堂」の設立に尽力した。父とともに頼山陽とも親交がある。菩提寺は大雲院。
室鳩巣 万治元年(1658)〜享保19年(1734)武蔵国生、金沢藩に仕え京都木下順庵に学ぶ。儒学者。吉宗の享保の改革を補佐する。赤穂事件の時、浪士を擁護した。
熊谷次郎直実 熊谷の先祖で平敦盛を討ち、世の無常を感じ法然のもとで出家し
た。その子孫は代々、直系は「直」の字を名に付ける。


  天性寺

浄土宗。本尊は阿弥陀如来。大永年間(152128)に眼誉が当麻寺に模して西陣曼荼羅町に創建する。秀吉の町割りで現在地に移転する。天明の大火で類焼するが、再建。当寺の十一面観音は織姫観音として中将姫の化身と伝わる。
阿弥陀如来と並んで中将姫作の木像法如尼像が安置され、6月の第二日曜日に御開帳される。また北東側の墓地が一段低いのは、鴨川の河原の名残りを示す。
寺宝として明兆作「絹本墨画白衣観音図」は、重要文化財で国立博物館に寄託。
吉山明兆 正平7年(1352)〜永享3年(1431) 臨済宗の画僧。


  矢田寺

通称矢田地蔵は大和郡山市矢田山丘陵で、天武と持統両帝の勅願寺といて建立。平安遷都で満米上人と小野篁によって五条坊門に別院として建立。火災で下京区綾小路通西洞院矢田町に移るが、秀吉の町割りで現在地に移る。元々の本尊は十一面観音であった。平安以降に梧桐(あおぎり)の一木造り地蔵菩薩立像が本尊になる。
閻魔大王が小野篁に「菩薩戒」を受けたいので、満米上人を連れてくるよう頼む。受戒した礼に、上人に地獄の有様を見せる。地獄の情景は、燃えさかる火に、亡者が焼かれているが、一人の僧が救っていて、よく見ると生身の地蔵菩薩であった。帰りに閻魔大王が小さな箱をくれ、中身は米で、使っても使っても尽きない。そのことで上人は満慶から満米へ名を代える。上人はこの体験で、生身の菩薩と同じ立像を造る。
菩薩戒 すべての人を救済する悟りを開くことを許される。悪をとどめ、善を修め、人のために尽くす。
小野篁 昼は朝廷で官吏、夜は冥府において閻魔大王の裁判の補佐。


  新京極通

寺町通り三条は、東海道を延長した三条通りと寺町通りの交差点で桃山時代から殷賑をきわめた。石川五右衛門や豊臣秀次妻妾が刑場に向かい、幕末には新撰組が巡視してまわった。明治5年、京都府参事槇村正直(まきむらまさなお)が、東京遷都で衰えた京都市民の士気を盛り上げるため、寺町通の東側に並ぶ寺院の境内を、地域振興のため南北500メートルの新京極通りを造った。
元々寺院の境内が、縁日の舞台として利用されていたのに目をつけて、各寺院の境内を整理したが、当時は廃仏毀釈で廃れて、坪50銭でも買い手がつかなかった。そこで露天商の元締め坂東文次郎に依頼して街並みをそろえた。当初は芝居小屋、浄瑠璃、寄席、狂言、見世物、大弓、小弓、揚弓、料理屋、牛肉屋、蕎麦屋、煮物屋茶屋で賑わうようになり、明治30年代には東京の浅草、大阪の千日前とともに、日本の三大盛り場として知られるようになった。
明治30年に稲畑勝太郎がフランスから活動写真を持ち帰り、東向座で試写会を行う。その後明治41年に新京極に「電気館」という映画館ができた。昭和11年の商工会議所の調査では、新京極通の店舗は132、映画館7、寄席小屋5、劇場1あったが、現在は松竹座と八千代館が残る。
石川五右衛門 生年不詳〜文禄3年8月24日釜ゆで刑死。大盗賊で伏見城の秀吉の寝室に忍び込んだ時、千鳥の香炉が鳴いて捕縛されたという伝説がある。洛中を引き回され三条河原の刑場へ向かう途中、寺町通にあった大雲院の門前で住職の貞安上人と目が合い供養を頼む。了解され引導を渡されたという。よって大雲院に墓がある。
豊臣秀次妻子 秀次の高野山追放後、7月11日聚楽第にいた一の台を始めとする妻妾侍女子女は、丹波亀山城に送られたが、その後戻され8月2日に一条から七輌の車に分乗させられ洛中を引き回され、寺町通りを抜けて三条河原で最後の時を迎えた。人数は三十数名という。河原には虎落(もがり)で囲み,盛り土に秀次の首を三宝に載せ、拝ませたのちに首を刎ねた。その時、大雲院の貞安上人が一人ずつ引導を渡した。処刑ののち全員の屍を一つの穴に放り込み、十丈四方(約30m)の塚を築き「悪逆塚」の塔が建てられた。
新撰組 文久3年(1863)小石川伝通寺を出発した浪士隊234名は中山道を上って、223日には壬生村に到着した。新撰組は元治元年(1864)三条小橋の池田屋の尊攘攘夷派の志士を斬捨て及び捕縛した。
槇村正直 天保5年(1834)〜明治29年(1896) 元長州藩士 明治元年から京都府に出仕、明治4年京都博覧会で余興に芸子や妓を踊らせたのが、都おどりの始めとされる。明治5年五山の送り火を中止させる(明治16年に復活)。明治8年に府知事になる。明治9年剣術を禁止させる。
明治8年物価 そば・うどんが1杯は5厘〜1銭、巡査の初任給が4円
50銭なら1〜2万円程で安く、現在なら坪500800万前後
稲畑勝太郎 文久2年(1862)〜昭和24年(1949) 京都生まれ染料・染色業界の発展に尽力した。フランスのリヨン大学卒、シネマトグラフ(映写機)を日本に輸入し、明治302月大阪の南地演舞場で、有料の上映会を行う。日本の映画興行を初めになる。


  誓願寺墓地

山脇東洋や腑分けされた14名(男10、女4)墓がある。安楽庵策伝の墓もある。
山脇東洋  宝永2年(1706)〜宝暦121762)丹波亀山の医者 カワウソの解剖から陰陽五行説の人体の内景に疑問をもつ。京都所司代の許可を得て死刑囚の腑分けを行い解剖図録『蔵志』を宝暦9年に刊行する。東洋の影響で江戸の杉田玄白らがオランダ医学書を翻訳する。
誓願寺本堂 西山浄土宗深草派、本尊の阿弥陀如来像は、賢門子・芥子国父子が春日明神に変身して造ったと伝わる・寺伝によると38代天智天皇(即位668671)の勅願所として南都に創建された。後に紀伊郡深草に移り、平安遷都で元元興寺小川に移る。初めは奈良仏教の三論宗であったが、蔵俊僧都の時に法然上人に帰依し浄土宗に改宗した。しかし秀吉の町割りで天正13年に現在地に移る。
秀吉側室であった松ノ丸殿(京極高次妹)の発願で伽藍を再興している。また松ノ丸殿は、大阪落城のあと六条河原で処刑された秀頼の遺児国松の遺体を引き取り、誓願寺に埋葬している。
迷子道標
(月下氷人石) 仁和街道に捨てられていた子が僧になり、母に会いたいと参拝し、持っていた卒塔婆の詩を詠んだことで母と会えたことで、落とし物や迷子を書いた紙を、右に教える方、左に探す方を貼るようになった。
安楽庵策伝は落語の始祖といわれる。55代住職となって、紫衣の勅許を得て「稀世の話し上手」(説教を面白く話した)として、『醒睡笑(せいすいしょう)』を著して板倉重宗に贈っている。


  誠心院

藤原道長が和泉式部に与えた法政寺の東北にあった東北院という三昧堂(小御堂)から始まる。ただ寺は荒廃し、一条小川の誓願寺の南に移るが、秀吉の町割りで、現在地に移る。
和泉式部の墓所 誠心院が誓願寺と共に移ったことによる。和泉式部は越前守大江雅致の娘(母は平保ヒラ娘)・恋多き女。多くの歌を残す。
橘道貞の間に小式部内侍(百人一首・大江山…)を産んだが、63代冷泉天皇(即位967967)皇子為尊親王と関係し、新王の死後はその弟敦道親王とも関係する(和泉式部日記は物語風に二人称で描く)が、この親王も亡くなる。その後、66代一条天皇(即位9861011)中宮彰子に再出仕した時は、一年ほど紫式部と同僚女房だった。やがて藤原保昌と再婚して、夫と丹後に赴任する

和泉式部塔 高さ3.4メートルの花崗岩の宝篋印塔。正面に阿弥陀三尊の梵字を刻み。塔身背後の基礎には発願者12名の僧尼の名前と正和2年(1313)の銘がある。川勝政太郎博士の説では、鎌倉時代に盛行した念仏信仰によって建立された供養塔という。北の梅の木が軒端梅(のきばのうめ)で和泉式部手植えというが、東北院にもある。
恋多きことから、道祖神社(下京区新松原町)に伝わる道命阿闍梨との話は、捨てた我が子と交わる話が残る。


  蛸薬師堂

養和元年(1181)比叡山延暦寺根本中堂の薬師如来を信仰している僧林秀の夢枕に薬師如来が現われ、「昔、最澄が彫った薬師如来の石仏が埋めてあるから掘り起こせ」と告げた。現われた石仏に喜んで二条室町に六間四方の堂を建てたのが天台宗永福寺の始まり、嘉吉元年(1441)に後花園天皇の勅願寺になるも、天正年間に寺町に移る。また境内に浄土宗西山深草派妙心寺がある。
蛸薬師の由来は、寺伝によると昔、善光という親孝行の坊さんが居たが、母親が蛸を食べたいと言い出したので、買って箱に入れて帰る途中、怪しんだ人々が箱を開けようとしたので一心に祈ると、八巻の薬師経に代わり、母の病も治ったことで蛸薬師と呼ばれるようになった。
他にも説があり『都名所図会』には、二条室町にあったころ「水上(みずのかみ)薬師」と称していた。ここには沢があったので「沢(たく)薬師」と世人が称し、これがなまって「たこやくし」になったと記してある。
諸病平癒 昔の女性は髪の毛を命の次に大切にしていて、どんな美人でも髪がちじれたり、朱かったりしているとお嫁入りの妨げになった。それで女性は素直な髪にすることに努力して、この薬師さんにお願いしました。昔は小絵馬に赤色の蛸の絵を描いて奉納しました。
またお薬師さんは十二の願いを聴いて下さることから、何でも直してくださる。また蛸から連想してイボにきく、さらにガンもおできだから、ガンにも良いといわれている。


  安養寺

浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来。寛和年間(985987)に恵心僧都が開創し、その妹安養尼が住持したので寺名になる。元は大和国当麻にあったが西本願寺の西に移り、さらに四条西洞院へ、そして秀吉の町割りで現地に移った。
寺伝によれば、本尊造立の際、台座が三度も壊れて困まり、蓮華を逆さにすると完成したという。女人の心の蓮華は、下を向いている。女身は生死にさまようだけでなく、多くの人を惑わすので往生できない。それを救うために、阿弥陀如来は逆様の蓮華を踏んで、女人を往生させているという。本尊は春日作。
弁天さんは商売繁盛。不動さんは健康を願う。北向地蔵は子供の喘息治る。
恵心僧都 平安中期の天台宗の僧。『往生要集』を著し、以後の浄土信仰に影響。
春日仏師 毘首羯磨(びしゅかつまろーサンスクリット語で妙匠)とも呼ばれる。百済から渡来し、河内飛鳥春日に住まいした技能集団。老仏師が彫った鶴が飛んだという伝説もある。

  錦天満宮

元は源融の河原院にあった歓喜光寺(六条道場)の鎮守社として祀られていた。歓喜光寺は、宗祖一編の弟子聖戒が開基。初めは八幡に善道寺として建立され、正安元年(1299)に関白忠教の外護を受け源融の河原院に建立されていたが、秀吉の町割りで移転し、錦天満宮の南にあった。
歓喜光寺は、明治5年に神仏分離で東山五条(現在は山科区大宅)に移転,さらに時宗法国寺を吸収して昭和50年に山科区に移転したが、天満宮は残った。
錦天満宮の祭神は、菅原道真公だから、毎月25日(月命日)には天神画像を掛けてお祀りするのが京都の通例で、江戸時代には寺子屋の学習を終えた子供たちがお参りにきました。境内には「京の名水錦の水」が街の人々の憩いの場になっている。
本殿、御輿社や末社に源融を祭る塩釜社、床浦社(小彦名神を祀る。疱瘡除けの信仰),日ノ出稲荷社(鳥居の額束の山形がある奴禰(ぬね)鳥居は日本に2つだけ、もう一つは伏見稲荷の荷田社(かたのしゃ))。なで牛は知恵を授かる。


  染殿地蔵

時宗、本尊は裸形の木造地蔵菩薩立像(高さ2メートル)。金蓮寺の塔頭であった。寺伝によれば、55代文徳天皇(即位850858)染殿皇后この地蔵に祈って56代清和天皇(即位858876)が誕生したことから、安産守護のご利益があるといわていれる。
寺伝によると、この寺は空海が大同3年(808)に始めた真言宗の寺で空海が十住心論を著したことで十住心院と言われていたが、中世以降に時宗の金蓮寺末になる。
暦応2年(1339)に松尾の西芳寺で夢想国師が庭園を造った時、不思議な法師が手伝い。名を問うと「四条の者」という。礼に衣を与えると、銀杖を残し消えた。後日衣は本尊の地蔵が着ていて、銀杖はいまでも西芳寺の南地蔵院にある。
※十住心論…空海が天長7年(830)に書いて惇和天皇に贈る。真言密教の心の段階を10に分ける。最低は善悪の判断もできない。徐々にレベルアップ。1〜3が人間レベル、4-5が出家、10が大日如来で最高位。
四条通 明治42年は道幅四間(約7メートル)だったが、3年後の明治45年6月11日に十二間(約22メートル)拡張され、大正15年には市電が走る。この拡張は主に北側でされ、西は南側の家屋が取り壊された。これは当時三条通りがメインであったが、この改修で、明治45年に大丸がオープンした。


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