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ウォークの地図

丹波亀山城を下町を巡る

亀岡は、明智光秀主人公の2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』と決定し、それを契機に主人公「明智光秀」のゆかりの地として注目されていますが、そこで亀岡の史跡ウォークを行いました。

  JR亀岡駅前・「京都スタジアム」「石田梅岩像」

京都スタジアム≪サンガスタジアムby京セラ(仮称)≫2020年春に完成する予定。総工費:約167億円の大規模プロジェクトで、収容人員:2万1600人。又施設内に大河ドラマ館も出来る予定で、来年には亀岡駅北側が一変します。現在J2の京都サンガのホームグランドになります。
建物は、保津川下りの舟を思わせる逆台形のシルエット。周囲の山並みと調和するように屋根に勾配をつけたデザインを採用。傾斜のある2層式スタンドで、張り出した屋根が最前列より2メートル張り出して全席を覆う構造は全国初です。最前列とフィールドとの高低差はわずか1,2m。間近で臨場感あふれるプロのプレーを観戦することが出来ます。
施設内特設会場に『麒麟が来る・京都大河ドラマ館』
2020111日にオープンいたします。
石田梅岩(1685年〜1744年)
亀岡駅改札口正面に、髷を結い、裃をつけて帯刀し威儀を正して正座する一人の人物像があります。亀岡が生んだ江戸時代の思想家(亀岡三偉人の一人)・石田梅岩です。亀岡駅から南東2キロの東別院出身の人.その生誕地周辺には今も生家が残っています。
石田梅岩は、もともとは学者ではありません。元商人で京都の商家に奉公して20年誠実に勤め、番頭にまでになった身でしたが45歳の時に退職しました。そして、一念発起して、今から290年前、45歳で私塾を開講しました。
京都の車屋町二条上ルの小さな借家で初めて開講し、その頃としては破天荒の、「聴講自由、席料無料、女性もどうぞ!」という呼びかけは世人を驚かせ、評判になりました。
「正直」・「勤勉」・「倹約」・「質素」をキーワードに「人の人たる道」を説き、又商業活動における営利追及も積極的に肯定し、商人としての自覚を高めさせました。その教えは、当時台頭しつつあった町人層に支持され、手島堵安などの優れた後継者によって『石門心学』として全国に広がりました。延享元年(1744年)60歳で生涯を閉じました。現在亀岡市内のあちこちに梅岩一口言葉の駒札が立っています。


  南郷公園(明智光秀像)

亀山城の南側(反対側)は、山陰街道が通り、城下町が広がり、内堀・外堀・惣堀の三重の堀と御土居がめぐり、堅牢な構えを呈しています。
一方、南郷公園のある北側は、内堀が一重に巡らせているだけとなっています。これは有事の際には保津川の流れをせき止めると北側の水田は一気に大きな堀になるように考案されているためでもあります。(南郷池は雑水川を取り入れ内堀跡といわれている)向う岸の堀の中央部辺りを注意深く見てみると、岸から小さい橋が架かっていて中嶋と呼ばれています。この島はかって、亀山藩の火薬庫がおかれていたところです。安全確保のために、堀の中に人工島を作りそこに火薬庫を設置しました。本来その島の頭上に、5層の層塔型天守閣が華麗な姿が見えたに違いありません。そして、公園の入り口に一対の鯱瓦のレプリカ(本物は京都府立医大で保存)が置かれていますが、この立派な鯱瓦が亀山城天守の上に飾られていました。
南郷公園は、桜の名所としていろいろなイベント会場として亀岡市民からも親しまれています。
史跡の


  亀山城址(おほもと・天恩郷)

光秀は天正5年(1577)から亀山城の築城を始めました。それまでの丹波の城とは違う「平山城」にしたことは、軍事拠点でありながら、経済拠点を意識した町づくりを感じさせます。「惣堀」を巡らせて、城下全体を取り囲み山陰道を押さえ、京都へのルートも完備。城下の暮らしを大事に考えたまちづくりに主眼が置かれたのではないでしょうか。光秀によって、城を中心に東西と南の三方向に城下町は展開され、近郊の村々からは、職人・商人・寺院も集め町並みを整えていったと思われます。まちづくりの基本となった惣堀・外堀・内堀はその時に整備されたといわれています。
よく知られるように天正10年(1582年)62日ここ亀山から1万3000の兵を動員して、あの有名な「本能寺の変」で主君織田信長を倒しましたが、その後、すぐに山崎の合戦で羽柴(豊臣)秀吉に敗れ小栗栖の露と消えました。
その後、亀山城は豊臣秀吉の支配下に置かれ、それなりの整備も進められました。
徳川家康は、江戸に幕府を置き、幕藩体制が敷かれて「亀山藩」が成立しました。初代の亀山藩主は慶長14年(1609年)岡部長盛が3万2千石で赴任しました。亀山城の整備は岡部長盛の在任中にほとんど完成し、以後明治維新まで120年間、松平家を中心に菅沼家等常に譜代大名(老中等要職)が交代に置かれました。
亀山藩は当初、反徳川勢力の居城である大阪城封じ込めの一環として天下普請による修築を家康は命じ、藤堂高虎が中心となって普請が進められ、光秀築城時は三層だったのが今治城を解体し高さ30メートルの五層(層塔型天守)に改築しました。
明治に入り、版籍奉還が行われ亀山藩を亀岡藩と改名され、明治4年(1871年)廃藩置県によって主をなくした亀山城は荒れるにまかされる状態になりました。明治11年(1878年)明治政府は、城郭が反政府運動の拠点にされる事を畏れ、廃城令により、亀山城も天守閣が解体されました。城内は政府により競売されますが、町には財力もなく『城売り』と呼ばれる商人の手に渡り何度も転売されました。管理する人もなく荒れ放題となりますが、大正8年(1919年)大本教の『出口王仁三郎』氏が買取り、亀山城址は大本教亀岡大道場としてその発展の拠点となりました。残念ながらその後、昭和10年(1935年)から始まる戦前の国家権力による宗教大弾圧により、石垣は元より教団建物すべてを破壊されましたが、戦後、紆余曲折を経て亀山城址は元の大本の所有となり、大本の努力で石垣も積みなおされ、天下普請で諸大名に刻まれた刻印も確認できます。諸施設も充実され今日に至っています。
現在は大本の聖地、天恩卿として城跡も美しく維持されています。


  元秋葉神社

今から320年程前に、遠州浜松で防火の神として広く信仰されていた『秋葉三尺坊』から勧請された神社。
1702年(元禄15年)青山下野守忠重が遠江国浜松より丹波亀山藩主に移封してきたが、着任の翌年の4月16日の夜半、亀山城下で火災が発生し、町家が多く被災した。その後もたびたび城下町で火災が発生したため、着任した青山忠重は、前任地の浜松で防火の神として信仰の厚かった『秋葉三尺坊』を城下町惣堀の内側の穴太口に勧請し城下の防火を願ったのが起こりとされている。穴太口の秋葉神社も元秋葉と呼ばれ、弘化3年(1846年)には石造の鳥居も新調され(銘が残っている)廃れることなく地域の人々によって守られてきた。
『秋葉信仰』は『愛宕信仰』と共に防火・鎮火の神として知られている。この『秋葉信仰』は浜松では現在も広く防火の神として信仰が厚く、亀岡の『愛宕信仰』にも匹敵する。東京の電気街『秋葉原』はもと火除け地(秋葉神社)のあったところ。
境内には亀岡の銘木に指定されている『イスノキ』が植わっている。
イスノキは関東以西に分布されているが京都府下での自生は他には確認されていない。成長が遅く、材はち密でソロバン玉に利用されています。


  円通寺

松平(形原)家の奥方の菩提寺という。
開山は、三河龍拈寺6世法輝円明禅師。寛文年間(1661〜73)に松平家信の命により「龍拈寺」を「円通寺」と改称した。寛延元年の松平(形原)氏の入封に伴い、篠山より移された。


  形原神社

この地は亀山城の正門である大手門のあった付近で、門を警備する役人の番所・外在番があった。そのためこの辺りを在番とも称している。
今から370年前、1748年(寛延元年)に丹波篠山から移封された松平(形原)信岑(まつだいらのぶみね)を祭神として明治13年(1880年)に創祀された。
明治13年11月。亀山藩の旧家臣が協議し、形原松平「始候ノ家信ヲ始メ信岑二公ノ霊及ヒ歴代ノ主ヲ合祀シ、社号ヲ形原神社ト称シ、地ヲ旧館ノ址ト、一祠宇ヲ創立」「形原神社造立主旨書」しようと呼びかけてできたのが現在の形原神社である。
ここは、藩主の生活の場である御館(おやかた)のあった場所で、松平氏の子孫が明治期にこの地を鍬山神社に寄贈した。その為、同社の御旅所にもなっており10月の亀岡祭には2蓮の神輿が迎えられる。正面唐破風一間社流造銅板葺の本殿はじめ、随所に施されている紋『八丁子紋』は当社の名前の由来となった「形原松平」の家紋であり、手水覆屋の鬼瓦には、『〇に利の紋』(大樹寺合戦・「利剣即是」の軍旗から)も松平氏の家紋である。


  古世地蔵堂




平安時代末期の武将・源頼政の守り本尊と伝えられる矢の根地蔵(平安期)を祀る。
「平家物語」には、頼政が弓矢で鵺を退治したエピソードが載せられているが、矢の根地蔵は、その伝承にちなみ、右手に弓矢をもつ。丹波国には、矢田荘と呼ばれる頼政の所領があり、ゆかりが深かった。
頼政は、治承4年(1180)、以仁王による平氏打倒の挙兵に加わり、宇治平等院にて敗死するが、鵺退治にも従った家臣・伊井隼太が地蔵をこの地に伝えたとされる。


  稱名寺

もとは浄土宗名越派の(袋中上人・たいちゅうしょうにん)が篠町山本に建てた天台宗の廃寺の草案が起源とされる。その後。寛永20年(1643)團中上人(だんちゅうしょうにん)により現在地に創建された。
山門の薬医門は元禄11年(1698)の建造で亀岡城下の寺院の中では最古の建物。
当寺の境内には、東別院の小泉から移されたと伝わる平安時代中期の女流歌人:和泉式部の墓と伝わる五重宝筐印塔がある。
又、境内にある鐘楼の釣鐘に小さな穴が開いているが、戦時中に金属供出をされた時、九州まで運ばれ、品質検査のために開けられた穴だといわれている。鐘の内部に寺の名前と所在地が刻銘されていたため、戻ってきたといわれている。


  宗堅寺

亀山城主であった「菅沼定芳・定昭」親子の菩提寺
最初、長徳寺と呼ばれていたが、松平成重が城主の時に久松寺と改め、寛永12年(1635)菅沼定芳が亀山藩主として入封すると、亡き父の菩提寺として改修し父の戒名の「勝徳院殿長翁宋堅大居士」から宗堅寺と改称された。
菅沼氏は、定芳の子・定昭が若くして亡くなり、嫡子がなかったため二代で断絶した。
境内の御土居の上に、菅沼親子と、定昭が亡くなる時に後を追って殉死した3名の家臣と乳母の墓が城主のそばに立派に五輪塔として並んで残されている。
なお、墓地の南端に惣堀(御土居)の一部を見ることができる。
時は遡って、天正20年(1592)に亀山城主・小早川秀秋が子供の菩提を弔うために、米2石を寄進した亀山五カ寺の一つでもある。


  聖隣寺

この寺は亀山城主・小早川秀秋が、早世した子供の菩提を弔うために建てたものといわれている。元は突抜町(つきぬけちょう)称名寺の西隣にあったが貞享3年(1686)の城下の大火で焼失し現在地に写された。
境内の墓地には「総見院殿一品泰厳大居士」とかすかに読める織田信長の院号がつけられた五輪塔があり、織田信長の供養塔と呼ばれている。この五輪塔は明智光秀の死後、亀山城が豊臣秀吉の手に渡った時に城主となった羽柴秀勝が建てたものと伝えられている。
羽柴秀勝は織田信長の4男で秀吉の養子となった人なので、父・織田信長の供養塔であるのも不思議な縁を感じさせられる。
〈毘沙門堂〉
境内の西北角に毘沙門堂がある。高さ1Mほどの毘沙門天像はもと国分寺の鎮守として祀られていたものを、明智光秀が亀山城築城の際、城の鎮護のために、二の丸に安置し、その後、小早川秀秋がこの寺を建立した時にこの寺の鎮守として安置したものと伝えられている。みつけるような鋭い目に口を強く結んだ憤怒の像は見る者を圧する力がある。


  お土居・亀山城惣堀跡(坂部児童公園)

この場所は坂部宇右衛門の屋敷のあった処である。坂部氏は文政〈1829〉の頃、亀山藩の槍奉行を務めていた家臣である。公園内に胸像が建っているが、子孫の坂部三次氏がこの地を市に寄付され児童公園になっている。
公園の南側に階段があり、土地が高くなっている。その端に柵があって東西の裏側にコンクリート溝が続いている。この溝が惣堀の跡で高くなっている所が掘った土を積み上げた御土居の跡である。こうしてみると惣堀と御土居が城下町の外側を囲み防御線として重要な役割を果たしていた事がよくわかる。
なお、俗説ではあるが、惣堀を掘るについて町家の科〈罪〉ある者に罪の軽重に従い、掘る坪数の多少を定めて掘らせた。それゆえにこの堀を『科怠堀とがめぼり』という。


  古世・親水公園(外堀跡)




古世親水公園は、丹波亀山城の外堀跡であり豊富な水が湧き出ることから地域の生活に欠かせない憩いの場となっている。

城内と城外を分ける外堀は、現在も用水路となって各地で確認できる。
親水公園は、外堀を利用した公園であり、この湧き水は、古くから城下北の田畑などに利用されてきた。


  光忠寺

亀山藩藩主・形原松平家の菩提寺です。寺名は形原松平氏の時、前封地「篠山」から移されたもの。寺そのものは亀山城の頃からあった。形原松平氏は徳川譜代大名で、寛延元年(1748)信岑(のぶみね)の時に前任の青山氏の後を継ぎ、篠山から移され明治維新まで8代、121年間、亀山城主として君臨した。
この地には前亀山藩主青山氏の菩提寺・幟龍院があったために境内墓地には歴代藩主の墓碑が整然と並んでいる。
形原松平家の祖・与副(ともすけ)は、三河形原の領主で今も愛知県蒲郡市西浦町には光忠寺があって、与副(ともすけ)から5代家忠までの墓がある。寺名の光忠は、与副の法名「光忠大居士」からきている。
本堂の屋根を見上げると「丸に利の文字」を書いた瓦が沢山使われている。この「利」の文字は形原松平家の家紋である。家紋に漢字をあてるというのは珍しい事かと思われるがそれには立派な理由がありmす。
『形原記』によると、形原松平家の家紋は、4代・家広が、大樹寺合戦時に「利剣即是」の旗を掲げて戦い、あまりにも激しい戦いのため、旗も「利」一字を残すのみであったという。子孫がその武勲を忘れないために、丸に「利」の字を入れて家紋としたと伝えられている。「利」の意味は経典の『利剣即是弥陀号』で弥陀の名号は衆生の罪業を断尽する最上の利剣なりということである。境内には「糸繰り姫の血染めの石」という話が伝っている。ある時、亀山藩のお殿様が商家の織屋の娘に惚れ、「糸繰り姫」といって夢中になって政務がおろそかにしてしまった。家臣はお殿様を何回もいさめたところ、聞き入れられて「糸繰り姫を下ろせ」殿様が命じた。しかし家臣は「糸繰り姫を殺せ」と聞き違えて姫を殺してしまった。その血が染みついた敷石は三つに割られ、一つは姫の生家に、今一つは城内の散歩道に、そして最後の一つは光忠寺に移され供養されたと伝えられている。


距離や時間、場所など説明があればここに書いてください

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