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蓮如と山科本願寺

応仁の乱で荒廃した京の東側、山科に「さながら仏国のごとし」と記された本願寺が建立されました。わずか半世紀の繁栄でしたが、その跡地を巡りたいと思います。

  オチリ池土塁跡

山科本願寺の寺域は、南北1㎞、東西0.8㎞におよび、伽藍が立ち並ぶ「ご本寺」、一家衆や僧侶、職人や商人が居住する「内寺内」と「外寺内」の三つの“郭”で構成され、周囲には土塁や濠をめぐらした“環濠城塞都市”であった。
当地は山科本願寺の南西部に位置し、以前は、鬱蒼とした竹藪で、「蛇山」ともいわれていたが、発掘調査の結果、建物跡、井戸跡、二か所の排水暗渠が検出され、土塁の構造や濠の規模などが明らかになった。
土塁は高さ56m、基底部15m、堀は幅約10m、深さ4mの防御施設であった。
検出した建物跡からは、大甕を埋めた甕蔵、炉をともなう鍛冶場が発見されたことから、当寺内で貯蔵施設や生産施設も有した一大拠点であったと推測される。
しかし、天文元年(1532)細川晴元が率いる法華宗徒、近江守護六角軍の攻撃で灰燼に帰した。
諸説あるが、戦闘を一時休戦する交渉中に攻城側が、この辺りの土塁の排水溝から軍が侵入し、寺内に放火したことから燃え落ちたともいわれる。
なお、オチリは、この場所に寺域の排水暗渠が土塁下を通り、濠へ通じていたことによる。


  西宗寺

先祖の海老名五郎左衛門信忠は、蓮如に帰依し、土地を寄進して山科本願寺建立に尽くした。文明13年(1481)蓮如から浄乗の法名をもらい、開祖となり、御絵像の「方便法身尊形」が与えられ、山科本願寺の一坊舎にこのご本尊を掲げて西宗寺とした。
野村(現東野、西野)は、真言宗醍醐三宝院の所領であったが、野村の地侍(老・長・坊主)は、山科七郷の一つで七郷共同の自治組織を形成し、寺家や公家の領主の直接支配を拒否する武力を持ち、徳政一揆や禁裏御所警備にも独自で参加している。
堺が「自由都市」なら、山科七郷は「自由村落連合」であり、海老名氏が寄合で本願寺誘致を提案し、七郷全体の了承を踏んで行われた。
山号の放鶯山(ほうおうざん)は、蓮如が鶯でさえ法を聞け(ホーホケキョ)と鳴くといって、鶯を籠から放した故事による。
また、蓮如の病気の時は、浄乗の子の祐信が付きっきりで看病したために、上人自画の「形見の御影」が与えられ、山科本願寺焼き討ちの際も地中に隠して焼失を免れ、夜半に掘り出して、大坂石山別院(石山本願寺)に無事に届けたという。
北側の駐車場は、当時の船着場で、野色川から本願寺や西宗寺への船荷が運ばれ、揚げ降ろしされた場所ともいわれる。


  史跡・土塁堀跡

「大谷本願寺」が、比叡山の僧兵に焼討されて以降、越前吉崎をはじめ各地に赴いていた蓮如は、山科に本願寺を再興し、本堂だけではなく寺内町を造った。
この地は寺内町の北西部に当たり、当時の寺内町では、税金が免除され、商人や手工業者が各地から集まった。多くの物品が流通し、繁栄して、当時、蔑視されがちな商人や職人などが生き生きと生活をしていた。
また、郭の出入口や、要所に凸凹の土塁堀を配置した防御機能を備えた構造で、この時期の平城での築城技術としてはたいへん珍しい。このことは、門徒衆の高度な築城技術が窺えるが、これらは蓮如の死後、第九代(実如)、第十代(証如)門主時代において、さらに繁栄し、防衛力が強化されて来たものであろう。
※山科中央公園…大正6年(1917))鐘淵紡績(鐘紡)山科工場が誕生し昭和45年(1970)長浜に移転、跡地は山科団地や公園となった。

  蓮如上人御廟所

大阪御坊で隠居していた蓮如は、自己の臨終を悟ると、輿に乗り山科本願寺へ戻る。蓮如は、親鸞聖人御真影に参り、「極楽へ参る御暇乞いに来ました。必ず極楽でお目にかかります。」と別れを告げ、枕元に親鸞聖人の御影を掛けて頭を北面にして、明応8年(1499325日(新暦514日)示寂85歳。
翌日に葬送、荼毘に付され埋葬地に松の木(数珠松)が植えられ、御廟が建てられた。上人の遺骨は遺族が首骨のみを取骨すると、火葬を見守っていた人々が一斉に葬場へ乱入、残骨の他、灰や土までも掘り取って持ち去ったという。当時は禁忌や死穢の観念は見られない。
明治15年(18823月に蓮如上人に「慧燈大師(えとうだいし)」の諡号が贈られたことを機に、当地は明治維新後に官地となっていたが、両派に下賜され、東西本願寺が共同で護持している。
蓮如の生涯など(概括)布教の天才といわれた蓮如は、幼少で実母と離別、継母との確執、困窮時代を経て、浄土真宗第八代を継職する。布教に努めるが延暦寺宗徒により、本願寺を破却される。まもなく、応仁の乱が発生し、混乱の京都を離れ、越前吉崎で坊舎を建立、布教活動に邁進する。寛正の法難(比叡山延暦寺の焼討)や加賀国守護の富樫正親と門徒による一向一揆が発生すると、蓮如は、宗祖親鸞の無抵抗の教えに従い、一揆の拡大を恐れて、越前吉崎を去る。
なお、当時の本願寺は、一向宗とみなされていたが、本来は時宗一遍の弟子の一向が開いたもので、宗派が異なり蓮如は一向宗と呼ばれるのを嫌って、浄土真宗と名乗っていた。
その後、畿内へ帰った蓮如は、山科の地に本願寺を再興する。京は戦災で荒れ放題の中で建立された山科本願寺は、「寺中広大、無辺荘厳、さながら仏国の如し。」と評され、巨大教団へと発展させた。
蓮如の内室は5人(4人はいずれも後妻)、27人の子宝に恵まれ、成人後に主要寺院に配されて大教団を支えることとなり、宗祖親鸞とは全く異なり宗教家らしからぬ、人間臭さと前向きな合理主義者であった。


  西本願寺山科別院(舞楽寺)



浄土真宗本願寺派本願寺山科別院といい、「西御坊」ともよばれる。
江戸時代初期に東西両派に分かれ、山科本願寺の跡地所属を巡り争論が発生、奉行所の採決を仰ぐも結論は出ず、奉行所の預かりとなる。両派は旧本願寺跡地に隣接する御坊(別院)を建立する。
中宗堂の蓮如上人木像は、上人自作といわれ、本堂上部の「松林山」の額は、山科本願寺の山号であったが、現在は本院の山号となっている。


  蓮如像跡

Now   Before

蓮如御廟所と東西御坊の中間に位置するこの場所に昭和9年(1934)に建立されたが、昭和19年(1944)に銅像が供出されて、台座のみだが、後部に由比小雪の子孫(卯三郎)が出資、黒岩淡哉作、高村光雲顧問との刻印が残る。
1934年(昭和9)に東西御坊の融和の象徴として、青銅製の行脚姿の蓮如の立像が建てられました。高さは台座から10mあったといわれている。
しかし、太平洋戦争中の1944年(昭和19)に「戦時金属供出」により、立像及び碑文が撤去され、現在は台座のみが残っている。後部には、由比小雪の子孫の卯三郎が出資して、彫刻家の黒岩淡哉(たんさい)作で、仏師・彫刻家の高村光雲が顧問の刻印のみが残っている。
この場所は、蓮如の御廟所と東西御坊のほぼ中間に位置し、現在も東西本願寺の共同管理になっている。


  東本願寺山科別院(長福寺)




真宗大谷派山科別院長福寺は地元では東御坊や東別院と呼ばれ、享保17年(1732)東本願寺境内にあった長福寺を移築創建したもので、そばに蓮如上人像が建立されている。
江戸時代は渋谷街道がなく、四ノ宮から音羽を通り南殿前通から御坊へ参拝して、渋谷越えで京へと入る人も多かったという。
本堂西側に蓮如上人像がある。


  蓮如上人御指図の井

 

昔、音羽の里に、行基というお坊さんが諸国行脚の時に立ち寄られ、里の女人に水を求められたのですが、その女人は、お坊さんの身なりを見て、水を差し上げなかったので、それ以後、この音羽の里では井戸水が出なくなったという。
その後、室町時代に蓮如上人が「山科本願寺」を建て、この音羽に隠居所として「南殿」が設けられました。そこで、地元の人からこの伝説を聞いた蓮如上人は、弟子の龍玄をつれて、この井戸の所まで来て、畳を敷かせて座り、自らの杖(つえ)で指図したところを人々が掘ってみると、清水が湧き出たと言われている。
それ以来、いかなる日照りが続いても、この井戸の涸れたことはないという。このことから偏執の人々も少なくなり、里人も全て真宗門徒になったと伝えられてる。


  光照寺南殿跡

泉水山光照寺といい、真宗大谷派(東本願寺派)、75歳にして蓮如上人は法灯を実如(32歳)に譲り、この地に南殿を造営され、隠居後の住まいとされこの地で往生されたともいわれる。
南殿は200m四方の規模で、土塁濠で防御機能を有する一方境内には園地が設けられ風雅な造営でもあった。
天文元年(1532824日六角定頼や法華宗徒攻撃により本願寺諸堂とこの南殿も焼亡する。後年、東本願寺家老・粟津家の祖、元昌が南殿光照寺を再建し現在に至る。南殿幼稚園の南隣に濠、築山や門跡などの遺構が残り、国の史跡に指定された。
※西御坊墓地に第九世・実如、第十世・証如が埋葬されている。(山科区東野中井ノ上町)


天候にも恵まれて、103人の参加者と歩きました。

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