>

謎の大王「車塚古墳」と城陽の国史跡を巡る

当地は京都・奈良の中間に位置して、「五里五里の里」と呼ばれ、古より交通の要衝で、力ある豪族が輩出して、大小多くの古墳が造られたが、無秩序な開発により破壊も進んでいるが、今回はこれらの遺跡を訪ねて当地の歴史に思いをはせてみたい。

  平井神社



旧平川村の産土社で、創建は不明だが神仏分離までは「牛頭天王社」と呼ばれていた。祭神は神速須佐之男命(かみはやすさのおのみこと)、八十猛命(やそたけるのみこと)、奇稲田比売命(くしなだひめ)で、本殿は一軒社流造、蛙又が美しい。
鳥居は石造りの神明鳥居で、享保2年(1685)の銘文がある。また、がん封じのご神木があり、人々の悪質ながんを治癒すると崇められている。


  平川廃寺跡


昭和18年(1943)瓦が発見され、続いて住宅開発が始まった昭和41年(1966)2年にわたる発掘調査が始まり、塔や金堂の瓦積み基壇があらわれ、白鳳時代に創建された南山城地域の奈良時代を代表する寺院跡として、昭和50年(1975)国の史跡として登録された。
久世郡の中心に当たる城陽市に古代寺院4ヶ寺が造られた。久世氏、栗隅氏、黄門氏など渡来系氏族が建立したと考えられている。伽藍配置は、西に塔、東に金堂を配置する「法隆寺式伽藍配置」で回廊は東西約81m、南北72m、寺域は東西175m、南北72mあり国分寺に匹敵する大きな寺院であった。


  久津川車塚古墳

宇治市南部から城陽市北半部にかけての丘陵や平地には、古墳時代前期から後期にかけて車塚古墳・丸塚古墳を含む100基以上の古墳が築造されており、久津川古墳群と総称する。京都府内最大の古墳群である。
久津川車塚古墳は、墳丘の長さ180m(二重の濠を含めると全長272m)の大型前方後円墳で、墳丘は3段、前方部が南に向けて広がっている。墳丘くびれ部の西側に造出(つくりだし=儀礼の場と組合式木棺)が設けられている。また墳丘表面には葺石、各段には埴輪が置かれていた。5世紀前半(古墳時代中期前半)の築造と推定され、その規模・内容から、南山城地方を治めた大首長の墓と推定される。
明治27年(1894)奈良鉄道(現在のJR奈良線)の敷設工事中に、後円部と未盗掘の外堤部から長持ち形石棺、副葬品が発見され、その後も鏡や甲冑など多数の副葬品・形象埴輪が出土し、古墳は国の史跡に、副葬品の一部は重要文化財に指定されている。


  丸塚古墳

車塚古墳と同時期の5世紀前半に築造され周囲に濠を巡らした帆立貝形前方後円墳で、全長104m墳丘の長さ80m、高さは9.6mと、墳丘の表面には葺石が張られていた。この古墳は前方部が短いことから帆立貝形と呼ばれている。また前方部西側のくびれ部から円筒埴輪や甲冑型埴輪が見つかっており、中でも高さ99p、幅72cm、奥行き60pの家形埴輪一棟はほぼ完全な形で出土している。
このことから被葬者は、車塚古墳の大首長を支えた有力者の墓と考えられている。

  芝ヶ原古墳群

芝ヶ原丘陵に広がる遺跡の総称で、古墳時代後半から中期の古墳、飛鳥時代の集落跡が発見されている。集落跡からは竪穴式住居と、掘立柱建物が併せて200棟も見つかり大規模な集落があった。竪穴住居は一辺が2mから6mあり、多くがカマドを持っている。古墳時代後期から飛鳥時代初期に営まれた掘立柱建物は、縦8.3m、横3.8mで、倉庫とみられる建物も4棟発見された。
古墳は小規模な古墳群で、古墳時代中期の大型円墳であって、芝ヶ原10、11号古墳の南側に5基見つかっている。出土と埴輪から古墳時代中期のものと考えられる。現在確認できる最大の円墳は10号で、11号は宅地開発により消滅した。宅地開発前の発掘調査で、卑弥呼の鏡ともされる「三角縁神獣鏡」や鎧が発見されている。。


  正道官衙遺跡

昭和40年(1965)正道廃寺跡を発見、昭和48年(1973)奈良時代の群衛の中心と推定される建物群が発見され「正道遺跡」と改められた。翌年には国史跡に指定され、平成4年(1995)柱の位置、大きさは忠実に、高さや枠組みはイメージで復元した現在の施設が完成した。6世紀後半から7世紀の集落遺跡と7世紀以降の歴然と配置された大型掘立柱からなる官衛遺跡とが重ねる複合遺跡である。官衛遺跡は奈良時代8世紀山城の国久世郡の郡衛の中心地であり、全体が10,850uに及ぶ広大な役所跡である。

  小学校内の9号古墳

先の芝ヶ原古墳群の9号古墳で、全国でも珍しい久世小学校の構内にある円墳で、間近に見れる古墳です。



  鷺坂と久世神社

古代大和の国から鷺坂を起点に「宇治」「伏見」はるか「北陸道」に繋がる交通の要所として位置づけられ、万葉集巻9雑貨の部には柿本人麻呂歌集に鷺坂を詠んだ歌が見られる。

山城の久世の鷺坂神代より 春は萌(は)りつつ秋は散りけり
伊勢の国「能裏野(のぼの)」で死を迎えたヤマトタケルの墓から、白鳥が飛び立ち大和の国に向けて舞い上がり、この鷺坂のあたりに舞い降りたとの伝説がある。
久世神社
 旧久世村の産土神で、祭神は日本武尊。創建は不明、本殿は丹塗りの一間社流れ造り檜皮葺、カエル股はコウノトリが巣に餌を運んでいる模様である。

  久世廃寺




久世神社境内一帯は、古くから古瓦が採取されることから、廃寺跡と推定され、久世廃寺と呼ばれていた。その後発掘調査で奈良時代前半に創建された古代寺院であることが明らかとなった。久世廃寺は8世紀中ごろ伽藍が整備され、9世紀に荒廃して、11世紀に廃絶した。
久世廃寺は、東に五重塔、西に金堂、北に講堂を配置する奈良時代前半に建てられた寺院である。この伽藍配置は法起寺式という。
寺域の大半は久世神社の境内地にあり、境内には塔跡、金堂跡、講堂跡が土壇として残っている。
平成19年に国の史跡に指定された。



Copyright (C) 2000 KYOTO SHISEKIGUIDE VOLUNTEER KYOKAI and KAMO SQUARE. All RightsReserved