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ウォークの地図

山里に水音響く 上高野を行く

上高野は大原を経て、敦賀に通じる若狭街道にあり、古くから小野一族が勢力をふるったところで小野郷と呼ばれた。今なお昔日の面影を残し、山間に水音が響く美しい景色を楽しみながら歩きます。


◎ 三宅八幡宮

推古天皇の時(607)小野妹子が遣隋使として隋に赴く途中、筑紫の国で病気となり近くの宇佐八幡宮に祈願すると、瞬く間に全快。帰国後報恩のために宇佐八幡宮を勧進し、創建したと伝わる。
はじめ、この付近は伊多太神社の境内であったが、応仁の乱の戦火で全焼、その後里人たちによって復旧され、明治期に拝殿、本殿が再建された。
三宅とは、南朝の忠臣備後三郎三宅高徳がこの地に移り住んで、邸内の鎮守として、大神を崇敬していたからいつしか三宅八幡宮と称するようになったとも伝わるが明らかではない。この地が中世以後禁裏後領地であったことから三宅(屯倉・みやけ)の遺跡を称したものではないかとの説もある。
祭神は応神天皇で、俗に「虫八幡」とも呼ばれ、始めは「田の虫よけ」の神であったが、後世には子供の疳(かん)の虫除けの神として子供の無病息災を願い崇められるようになった。絵馬は京都市有形民俗文化財として、子供に関連したものが多く保存されている。
五味藤九郎 上高野は高野川流域ながら地勢が高いため水不足であったが、江戸初期に京都代官五味藤九郎は、村人の窮状を知り高野川上流から多大な犠牲を払いながらも隧道を掘る灌漑用水路を完成させた。用水を利用した水車は10基もあり昭和30年ころまで利用していた。用水は現在もこの地域を潤している。


◎ 三明院




延寿山三明院といい、真言宗醍醐寺派の寺院で本尊は弘法大師、脇仏に不動明王と歓喜天尊。多宝塔は昭和36年に建立された。
両界曼荼羅の寺宝、樹齢百年の楓などがある。









◎ 伊多太大明神森跡



伊多太神社の旧跡で、延喜式内社として愛宕郡有数の大社であり、農耕神であり付近は伊多太の森称して大きな森であったが、応仁の乱で焼失、現在は巣同神社の御旅所となっている。







◎ 竹林寺



臨済宗相国寺派で、(寛永14年1637)静室閑公和尚の開祖。
上京区の第二日赤西側付近から移転したもので、本尊の聖観音菩薩像は鎌倉時代の作とされる。非公開寺院。





◎ 蓮華寺

帰命山蓮華寺といい、天台宗延暦寺派。
もとは、時宗の寺として東塩小路(京都駅前付近)にあったが、江戸期寛文2年(1662)に加賀前田家の家老今枝近義が、この地に移転再興、祖父重直の草庵を菩提寺とした。
近義は狩野探幽、石川丈山、小堀遠州や木下順庵らと交友があり池泉回遊式庭園は石川丈山か小堀遠州作とされている。
本堂前の石灯籠は六角型の急勾配の笠を付けた珍しい蓮華寺型石灯籠と呼ばれ、古来茶人に人気がある。
鐘楼は井戸屋形で宝形造りむくり破風、鐘は朝鮮鐘といわれ裾にカーブを持ち、黄檗二世木庵禅師の銘文がある胴鐘。


 ◎ 崇導神社

上高野の産土神で桓武天皇の弟、早良親王(崇導天皇)を祀る。
早良親王は延暦4年(785)に長岡京で起きた藤原種継暗殺に連座したとして皇太子を廃され、乙訓寺(長岡京市)に幽閉された。後、淡路への配流途中に飲食を断ち衰弱死した。
この後に桓武天皇の身辺では忌まわしい出来事が次々と起こり、陰陽師に占わせたところ、早良親王の祟りであろうということとなり、早良親王の霊を鎮めるため親王に崇導天皇と追号を贈った。
創始は貞観5年(863)に神泉苑で御霊会を行っており、崇導神社はそのころの創建と伝えるが定かではない。
小野毛人(おののえみし)墓
崇導神社の背後山中に小野毛人朝臣の墓がある。毛人は最初の遣隋使となった小野妹子の子、天武天皇の御代に太政官兼刑部大夫となった。
墓が発見されたのは、江戸初期に里人が土を踏むとポンポン響くので発掘すると偶然に発見されたもので、石室の中から銅板の墓誌が出てきた。墓誌は国宝に指定され現在、国立博物館で保管中。


◎ 栖賢寺


朝崇山栖賢寺は臨済宗大徳寺派で、室町時代初期に兵庫県尼崎市に創建されたが明治に廃絶。間宮英宗禅師が昭和6年現在地に再興した。最高に際して山口玄洞が土地を寄進、本堂、方丈、茶室や庭園を建立した。
本尊は如意輪観音半跏像。
金鳳閣は、銅板葺屋根の露盤上に銅製の鳳凰を置く。
茶室は残照亭
山口玄洞は代々尾道の医者の家に生まれたが、家運が傾き大阪へ出る。洋反物のブローカーとして成功し、巨万の富を得て実業家、貴族議員となり、京都寺院へ多くの寄進を行った。


◎ 御蔭神社

御蔭山に鎮座する賀茂御祖神社(下鴨神社)の境外摂社
御蔭山を御(みあれ)山と称し、下鴨神社の祭神鴨建角身命の女・玉依姫が別雷神(わけいかづちのかみ)を生み給うたところといわれ中世以降、神の降臨地として神聖視されている。
祭神時は鴨建角身命と玉依姫で、本殿と拝殿は19世紀中の造りで?葺。
葵祭に先立ち、5月12日に御蔭祭が行われる。御蔭祭は荒御霊を迎える御生(みあれ)の神事で、神の誕生や降臨のことです。12日の朝、氏子や神主らは下鴨神社を出発して御蔭神社の境内で正午を待つ。正午は神の力が最も強くなり降臨すると信じられており、降臨した神を奉じて下鴨神社に移御する祭礼です。


◎ 隣好院





臨済宗建仁寺派の寺院で、江戸初期に高野川近くに月渓正円比丘尼のが開山して、三江紹益大禅和尚が創建したもので、明治元年に現在地に移築された。
本尊は、阿弥陀如来坐像






◎ 宝幢寺




霊芝山宝幢寺と称し、浄土宗西山禅林寺派江戸時代に童空旭移上人により創建され、新町通四条下る善長寺町から平成3年にこの地に移転本堂を再建された。
本尊は阿弥陀如来像(室町時代)は、信濃善光寺の本尊を模刻したものと伝える。
小野毛人の墓から発見された銅板墓誌の写しを保管している。本物は京都国立博物館で保管。


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