醍醐周辺の史跡を訪ねて

       ・・・明智光秀終焉の地〜日野法界寺〜平重盛の墓〜小野小町ゆかりの里〜醍醐寺・・・


明智光秀終焉の地
                               本能寺に主君織田信長を討った光秀は11日の後,羽柴秀吉と天下を賭けて天王山に
戦うが敗戦の憂き目に遭う。
光秀は近臣数名と坂本城を目指し落ちのびる途中,小栗栖村で地元民の襲撃を受けて絶命した。
最初に槍で腹部を刺された明智藪と,深手の光秀はコマを進めるが遂に落馬,家臣に介錯させ遺骸を埋めさせた場所にそれぞれ碑が立つ。


日野法界寺


藤原北家の一門,日野氏の菩提寺も
応仁の乱で大伽藍を焼失,薬師堂と
国宝の阿弥陀堂がわずかに面影を残す。
境内の一角には,誕生院があり,
親鸞上人誕生の地とされている。










平重衝の墓

武勇を謳われた平清盛五男の重衝も,「一の谷の合戦」で捕らわれ,大和で処刑の身となる。醍醐を護送
中,武士の情で妻北の方に会うことを許される。北の方が今生の別れに琴を吟じたという丘を「琴弾山」というそうな。


一言寺

醍醐寺の塔頭「金剛王院」は,一つの願いなら叶えられるところから「一言寺」と呼ばれる。
保元,平治乱の主役の一人,信西入道の女「阿波内侍」が創建という。
また一言寺下の小道は,治承4年(1180)平家打倒に立ち上がった源頼政が,利あらず
南都へ落ちて行ったところから「頼政道」と地元ではいう。


醍醐寺

山上山下に百万坪の境内を有する真言宗醍醐派総本山には,多くの国宝重文の建造物,仏像また古文書,経巻が現存ずる。
三宝院,庭園,五重塔そして四季の移ろいのみごとさは,美辞麗句よりもまず足をはこびたい。


隋心院


真言宗善通寺派大本山の小野隋心院は,門跡寺院として
歴代摂家の師弟が住持した。
小野小町ゆかりの寺として,「化粧の井戸」や多くの男性から寄せられた恋文を
埋めたとされる「文塚」がある。








勧修寺

醍醐天皇の生母藤原胤子の本願により,外戚宮地家の邸跡に伽藍を創建したもの。
一時荒廃したものの,徳川時代に復興門跡寺院として栄える。
書院は御所から移設した旧御殿といわれる。庭園氷室池のスイレンは有名。