相国寺
[しょうこくじ] 臨済宗相国寺派の大本山 足利三代将軍義満が座禅修行寺院として創建(1382年)。 相国は太政大臣の唐名で足利義満が太政大臣になったのにちなむ寺号で、初め承天相国寺と称した。 幕末の相国寺は御所の北隣と言う立地から、幕府・朝廷と係りが深く、多くの史事、史跡を残している。 1859(安政6年)安政の大獄で尊融法親王(中川宮)が、相国寺桂芳軒に永蟄居。 1861(文久元年)皇女和宮降嫁の護衛として上洛した幕府軍宿舎となる。 1862(文久2年)薩摩藩邸を錦・伏見に次ぐ3番目として、相国寺領地6946坪を借地して建設。 1868(慶応4年)王政復古後の外国使臣初参内で入京のフランス公使レオン・ロッシュの宿舎となる。 1868(慶応4年)鳥羽伏見の戦で、薩摩藩戦傷者の臨時病院となる(養源院) 長州藩墓所 禁門の変で戦死した長州藩士約200名の内20数名の遺体がここにに葬られた。 しかしその氏名は二人しか判っていない。この墓の隣に藤原定家・足利義政・伊藤若沖の墓が並んでいる。 慈照院 [じしょういん] 相国寺塔頭で初め大徳院と称したが、八代将軍足利義政公の公方香華所となり慈照院と改号。 寛永6年(1629)八条宮智仁親王の香華所となり、以降明治14年桂宮淑子内親王まで宮家歴代の尊碑が奉安されている。 上御霊神社 [かみごりょうじんじゃ] 平安遷都にあたりさわら早良親王(桓武天皇の弟)の怨霊を鎮めるため大和国の霊安寺御霊社から親王の神霊をこの地に遷座した。応仁元年(1467)に起った応仁の乱の発端となった所。 尾形光琳宅祉 [おがたこうりん] 江戸時代中期の画家で琳派と称される装飾的画派の祖、陶工の乾山は弟。 曾祖母は本阿弥光悦の姉で光悦の影響を多く受けている。 上善寺・長州藩士の首塚 [じょうぜんじ] 浄土宗の寺院。禁門の変で討死にした長州藩士入江九一他七名の首塚がある。 入江九一は吉田松蔭に傾倒し腹心として活動。 天寧寺 [てんねいじ] 曹洞宗永平寺派の寺院。山門を通しての比叡山の眺めは絶景で、額縁の門と言われている。 薩摩藩刀術武技「示現流」の伝承者善吉和尚(赤坂雅楽助)・江戸時代の武将茶人金森宗和の墓がある。 阿弥陀寺・信長父子の墓 [あみだじ] 浄土宗の寺院。本能寺の変で死亡した織田信長・信忠父子や森蘭丸など諸臣百二十余名の墓がある。 薩摩藩士の墓 相国寺塔頭林光院の墓所。禁門の変、及び鳥羽伏見の戦などで戦死した薩摩藩士72名が葬られている。 合葬を表す大石碑の背面には全員の戦没地・所属・階級・氏名が刻まれている。 養源院・薩摩藩臨時病院 相国寺の塔頭で薩摩藩邸の東隣りに有り、鳥羽伏見の戦で負傷した薩摩藩士の臨時病院となったところ。 |
written by Nakagawa 2000.July