真葛ヶ原

   我が恋は松を時雨の染めかねて
      真葛ヶ原に風さわぐなり



 円山公園を中心に、北は知恩院より、南は双林寺に及ぶ東山山麓一帯は、むかし真葛や薄、茅などが一面に生い茂る閑寂幽静の原野で真葛ヶ原と呼ばれていた。
 天台座主慈円僧正がこの地に安養寺を中興したとき、この一帯の景観を望んで読んだ歌である。恨みさわぐ心情は真葛ヶ原にたとえられ、一躍和歌の名所となり多くの歌が読まれている。 
 幕末には志士達の暗躍の舞台となった。円山公園には維新を目前にして散っていった坂本龍馬・中岡慎太郎の像が建っている。






大雲院

 
織田信長の命による安土宗論(浄土宗と日蓮宗の宗論)の勝者、貞安を開基とする。本能寺の変で信長、信忠父子が死に、二条烏丸でその回向をしたのが当寺の始まりと言う。その後、秀吉の命で四条寺町に移り、昭和47年に現在地に移転された。
 院内墓地には、織田信長・信忠父子をはじめ、島津以久、伊藤坦庵、石川五右衛門、富岡鉄斎等の墓がある。




祇園閣

 
大倉財閥の創始者、大倉喜八郎が昭和3年この地に別邸「真葛荘」を構えたとき、祇園祭の山鉾を模して建造したもので、塔上には平和の鐘を架け、一階には阿弥陀像を安置する。
 高さ36m、閣上からの眺望はすこぶる良く、洛中洛外を一望に俯瞰することが出来る。











大雅堂址
 円山公園音楽堂西南の一隅に「大雅堂址」と記した石碑が建っている。近世画聖の池大雅が妻玉蘭と生活を営んだ葛箪居(かったんきょ)の近くである。玉蘭との夫唱婦随は二人の出会い話とともに有名である。




東大谷祖廟

 親鸞上人の遺骨を安置した東本願寺の宗廟。本願寺は慶長7年(1602)東西二派にわかれ、西本願寺は西大谷に祖廟を築いたのに対し、東本願寺はその境内に築いた。その後、徳川四代将軍家綱の寄進によって、承応2年(1653)現在の地に移り東大谷別院と称す。祖廟は山麓上段地にあって、石墳上に親鸞上人遺愛と伝える虎石を置く。






双林寺
 最澄を開基とし、盛時は広大な寺域に多くの塔頭を有し、比叡山の別院となっていた。中世に廃頽し、室町初期に時宗として再興したが応仁の乱で焼失衰退した。明治維新のとき天台宗に復し、のち寺域の大半が円山公園となったため現在は本堂一宇残るだけである。







西行庵
 茅葺の瀟洒な西行堂はもと洛西双ヶ丘の麓にあった頓阿法師の蔡華園を移して再興したものと云われる。堂前にある「西行桜」は、花を愛し旅に死んだ西行を偲んで植え続けられてる。毎年4月第2日曜日には全国の歌人達が集まり西行忌が行われる。









芭蕉堂

  柴の戸の月やそのまま阿弥陀房

 松尾芭蕉が元禄4年(1691)、双林寺を訪れたときに吟じた一句である。この句に因んで天明3年(1783)俳人高桑蘭更が双林寺からこの地を借用し、一宇の草庵を営み南無庵と称した。毎年11月12日にここで芭蕉忌(時雨忌)が行われる。







月真院・御陵衛士屯所跡
  新撰組誕生1年半後の元治元年(1864)秋、江戸における隊士募集に応じて北辰一刀流の剣客、伊東甲子太郎が参謀として入隊した。しかし勤王派の伊東は近藤勇等と相容れることが出来ず、ついに分離脱退という形で同士15人と新撰組を離れた。慶応3年3月10日、泉涌寺塔頭戒光寺長老湛然の肝いりで孝明天皇御陵衛士を拝命。同年6月8日月真院に移り「禁裏御陵衛士屯所」の札を掲げ、以後伊東等は「高台寺党」と呼ばれた。しかし、同年11月18日伊東は新撰組によって暗殺され、急を聞き駆けつけた隊士等も斬殺され高台寺党は壊滅した。(油小路事件)




高台寺
 豊臣秀吉の正室北の政所高台院湖月尼が秀吉の菩提を弔うために創建した寺。徳川氏の手厚い庇護もあり、創建当初は伏見城の建物の一部を移し壮麗をきわめたが、寛政元年(1789)の火災で烏有に帰した。幕末(1863)には松平春嶽が当寺を本営としたため、浪士の焼き討ちにあい、更に明治18年に出火し創建時の建物は殆ど無くなった。開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭は焼失を逃れた。




翠紅館跡
 幕末当時この翠紅館は西本願寺の別邸であった。文久3年1月27日、長州藩世子毛利定広隣席のもと、在京各藩の有志が出席して攘夷実行対策の会合が行われ、これが発展して天皇の賀茂行幸、石清水八幡宮への攘夷祈願が行われた。さらに6月17日この場に桂小五郎・真木和泉等多数の有志が会合し攘夷強硬策へと進んで行った。この2回の会合を「翠紅館会議」と言う。現在は料亭京大和となっている。





霊山護国神社
 霊山は音羽山に続く峰で、室町末期に東海道と渋谷越えの交通要路を押える目的で足利義輝が築城した霊山城の跡である。文久2年12月、この山の中腹にあった正法寺境内の霊明社で尊王のために死んだ志士を祀り弔祭を行ったのが始まりで、次第に志士の墳墓の地となった。慶応3年11月16日、坂本龍馬・中岡慎太郎が遭難したとき、同志がここに集まり、桂小五郎が涙を振って墓標に記してからいっそう志士と深い繋がりの地となった。





明保野亭騒動の跡
 池田屋事変の残党捜索の命を受けた会津藩士柴司ら7名は新撰組と共に通報のあった明保野亭へ踏み込んだ。二階で飲酒していた一人の武士が逃げ出そうとしたので訊問したが答えず逃走の気配を見せたので司は槍で相手の腹を刺して捕らえた。訊問すると土佐藩士麻田時太郎と名乗った。当時、会津と土佐は公武合体派として協力関係にあり関係悪化を憂えた会津藩主松平容保は土佐藩に謝罪したが解決に至らず、責任を感じた柴司は兄の介錯で自刃した。それを知った土佐藩も士道に悖るとして麻田を自決させたのでようやく解決した。


竹久夢二寓居跡
 二年坂の中程西側にある二階建て民家で今は土産物屋になっている。竹久夢二が大正6年から2年弱、愛人笠井彦乃と、お互い山・川と呼び合いつつ人目を忍び過ごした所である。夢二作詩の「宵待草」はこの時のことを詠ったと云われる。








清水寺
 正式には音羽山北観音寺、清水寺は通称である。奈良興福寺に属する法相宗の寺であったが、近年独立して北法相宗となった。延暦17年(798)、坂上田村麿が延鎮を開基として創建。当寺の特色は音羽山の中腹に位置し、前方は桜や紅葉におおわれた深い渓谷をへだてて京都市内を見下ろす景勝地で、寺院の外壁がなく開放的である。このことが一般庶民を引き付け、京都随一の観光寺院となっている。



成就院

    大君の為には何か惜しからん 
       薩摩の迫門に身は沈むとも


 成就院は清水寺の本坊。住職であった月照は勤皇派の僧で「安政の大獄」で幕府役人の手がのびるのを恐れた西郷隆盛が救出に動く。月照を連れ出し薩摩に帰ったが藩の保護が受けられず、月照と共に錦江湾に身投げする。西郷は助かるが月照は絶命した。成就院前の一角に、西郷・信海の詩碑とともに月照の辞世の句碑が建つ。







舌切り茶屋

 月照が西郷と鹿児島へ出立に際し、後事のすべてを近藤正慎に託した。正慎は逮捕されるが一切の自白強要、拷問に耐えて、自らの舌を噛み切って自害した。その志に感動した清水寺は、残された妻子のために境内の一角に茶店を出させ救済した。今も正慎の子孫によって営業が続いている。




忠僕茶屋


 月照の下男大槻重助は、月照の供をして鹿児島へ同行する。月照・西郷入水自殺のあと捕らえられ京都に送還され、厳重な取調べを受けたが月照の活動内容は承知しておらず、やがて許される。重助は妻と二人で月照の墓守をしながら、清水寺の許しをえて三重の塔の傍らで茶店を営んだ。場所は変ったが今に残る「忠僕茶屋」がそれである。







安祥院・梅田雲浜の墓

 享保10年(1725)、木食上人によって五条坂のこの地に再建された。木食上人は日ノ岡峠の坂道を開いて交通の便を図るなど多くの土木工事を行い、世のためにつくした。境内地蔵堂に安置する地蔵尊は「日限地蔵」と称し、日を限って祈願すると成就すると言われ庶民の崇敬をあつめている。
 境内墓地に梅田雲浜の墓がある。安政の大獄で捕らえられた雲浜は獄中で病死(49歳)。雲浜の墓は、このほかに東京の「浅草海禅寺」と若狭小浜の「松源寺」にもある。





鳥辺野

    巡礼はもだして去りぬ鳥辺野の
     老い杉の上に白き星の月
  九条武子

 賀茂川の東方の山腹、五条から今熊野までの広大な地域をいい、化野・蓮台野などとならぶ平安時代からの葬送地。今は広大な日蓮宗の鳥辺野墓地、真宗本願寺別院・西大谷墓地がある。本願寺別院は宗祖親鸞上人の廟所。上人の遺骨は当初、知恩院三門の北の地に納められたが、徳川家康による知恩院の拡張(慶長8年・1603)にあたって現在の地に移された。


妙法院

 天台宗延暦寺に属する門跡寺院。伝教大師最澄の開基で、もと比叡山上にあったが、後白河法皇によって京洛へ移され、南叡山妙法院と称するようになった。
 幕末の文久3年8月18日(1863)、本寺の寝殿に七卿と長州を中心とする攘夷派の有志が集まり、深夜に至る協議の結果、攘夷実行の時節到来まで、ひとまず長州に下ることを決議した所である。







幕末の東山周辺を歩く

円山公園から、ねねの道・維新の道・二年坂・産寧坂・清水坂と歩き
東大路通りを妙法院まで、主に幕末の志士達ゆかりの史跡を訪ねます。