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ウォークの地図

第1回・幕末維新の史跡

平成10年に京都自治100終戦記念事業として、まちづくりし支援事業『夢・ロマン・京都シティ』の応募して、私たちの前身となる『幕末京都ボランティアガイド塾』が立ち上げられまして、最初に行われたウォークでした。

  長州藩邸跡と桂小五郎像

明治維新の三傑の一人、桂小五郎像が京都ホテルオークラの前、元長州藩邸跡に建立されています。(長崎の上野彦馬写真館で撮影したものを江利敏明氏が制作)
長州藩の命運を担い京都を中心に活躍した彼の功績は大きく、この時代を語る上で、松子夫人とともに必ず登場する人物でしょう。
西南戦争発生の明治10年には京都で病となり、明治天皇の行幸を仰いだ後、5月26日に死去する。墓は遺言によって霊山墓地にあり、松子夫人と共に眠っている。


  大村益次郎遭難の地

周防の国の医師の子として生まれ、日に緒方洪庵適塾の塾頭となり、宇和島藩や幕府蕃署調所教授方手伝などを歴任して、文久2年に桂小五郎の要請を受けて四境戦争、戊辰戦争で才能を認められる。
明治政府では、兵部大輔(陸軍大臣)として徴兵制など兵制改革に取り組むが、武士階級の恨みを買うことなった。関西へは軍事施設視察に来ていたが、旅宿で7名に刺客に襲われ、重症に身を風呂場に隠れて難を逃れるが、破傷風となり大阪の病院で死去する。享年46歳。
靖国神社の銅像が有名


  佐久間象山遭難の地


松本藩の下士の生まれであるが秀才の誉れが高く、後に西洋兵学を学び、嘉永3年深川藩邸で砲学の教授を務め、勝海舟、吉田松陰、橋本佐内、河合継之助などの人材を育てた。
将軍家茂の召命により上京、公武合体開国、開国佐幕活動を行う。元治元年7月11日、騎馬により木屋町通を三条通から御池通に差し掛かった時、5、6人の浪士に襲われ絶命した。享年54歳
抜群の才能を持つ人物であったが、性格、態度に難があり、敵対者も多く横死に当たっては藩内の同情も薄く、佐久間家は断絶に処せられた。

  武市瑞山寓居跡

武市半平太が住まいしたのは、文久2年からの2年間であったが、この時期が彼が最も華やかに活動した時期でもあった。


  吉村寅太郎寓居跡




土佐国高岡郡で庄屋の子として生まれた寅太郎は、12歳で父の跡を継ぎ各地で庄屋を歴任、高知城下では間崎鉄馬に師事し、また武市瑞山の土佐勤皇等に加盟したことが彼の人生を決定づけた。


  池田屋事変跡




尊王攘夷派の志士が会合をしている現場に、新選組が踏み込んだ現場です。
現在は、居酒屋として営業しています。


  海援隊屯所跡

慶応3年6月に上京した坂本龍馬が、ここ酢屋嘉兵衛宅に投宿して以来、海援隊京屯所利用された。海援隊は、慶応3年4月に発足した亀山社中が、土佐藩の後援を受けて結成されたもので、藩という組織から独立した商社であった。
竜馬は酢屋を宿所としていたが、身辺に危険との忠告で近くの近江屋に宿泊しろ事となるが、同年11月15日に盟友中岡慎太郎と共に暗殺された。


  彦根藩邸・土佐藩邸跡






高瀬川沿いには藩邸が多く置かれていた。彦根藩邸は四条を上がったところに居を構え、その少し南側に土佐藩邸があった。


  本間精一郎遭難の地

木屋町通東側の39番路地(通称瓢箪路地とも)で刺客に惨殺された本間精一郎は、越後国の出身で、郷士の出身だが頭脳明晰、弁舌にも優れ勘定奉行川路聖謨の中小姓となり、安政5年通商条約勅許奏請のため老中堀田正睦の上洛に遂行する川路の小姓として入京したが、幕政を批判したために一時越後に隠棲。再び上洛し尊攘派有志と交友し活躍したが、寺田屋事件以後は公家との接触機会が多くなり、派手な行動から尊攘派からは猜疑の目で見られ、武市半平太の指示で暗殺された。
刺客は岡田以蔵、田中新兵衛ら7人という。首は四条河原に晒され、死体は高瀬川に打ち捨てられた。享年29歳


  古高俊太郎邸跡

近江国栗東郡古高村出身で、父の縁故で山科毘沙門堂門跡の家臣となり、梅田雲浜の門に学び、早くから尊王の志を抱く。文久年間に升屋湯浅喜右衛門の名跡を継いで商人を装い、同志の庇護や連絡に尽くしたが、新選組の家宅捜査を受けて逮捕された。
これが池田屋事変の発端となった。
禁門の変に際して惨殺された。享年36歳


  大高又次郎寓居跡

古高邸の一角に寓居していた。
同志と共に新選組に襲撃され闘死した。享年44歳
家計は赤穂浪士大高源吾のまつえいでした。


  中岡慎太郎寓居跡

享年30歳


  近江屋跡



現在は、河原町通の喧騒の中にポツンと。


京都ホテル前から歩きます

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