義経伝説前半

源義経。日本を代表するヒーローとして日本各地にその足跡を残している,地元京都には母常盤御前のころから,いやさらに遡り賜姓初代経基のころから連綿と続く源氏の足跡の一部であり,かつ義経以降も数々の血縁に連なる人物が登場します。勝者の歴史という目で覗いても身内で殺戮を繰り返し,また性格異常な面を持つ人物が輩出している家系ようですが,これも天皇,公卿,家臣団など複雑極まりない情勢の中で,義経はじめ彼らは精一杯生きたことでしょう。


 ◎ 常盤御前

 近衛天皇の皇后九条院に仕えていた雑士だが,評判の美人で時の権力者として台頭してきた源義朝の寵愛を受け,今若,乙若,牛若の三児を得るが平治の乱による源氏の敗退で大和に逃避する。しかし母関谷の捕縛により清盛の元に出頭し母と子達の除名を嘆願する。清盛の愛妾となることを条件に許可された彼女は,清盛の娘を出産後,清盛から藤原長成に下賜された。

○ 紫竹牛若町付近
 牛若丸は,義朝の第9子として義朝の別邸のあったこの地で生れたという。地元旧家の上野新兵衛氏によると,同氏所有の北側畑に北山を背に牛若誕生の井が応永2年(1395)調之の碑が立ち,すぐ右後松の根元には胞衣塚があり,牛若丸の胞衣とへその緒が埋められたという。
 上野氏の前面道路は,通称上野街道といい玄関を入ると,鑓や火縄銃が迎えてくれる。
 また絵図によるとこの地には,牛若丸産湯大弁天女社があって境内に産湯井が描かれている。因みに一つ東側の通は牛若通といわれている。

このほかにも常盤伝説には事欠かない。東南に少し行くと,源義経産湯井ノ遺址が路傍に佇む。
西側光念寺には,常盤の守り本尊という腹帯地蔵があり,北の常徳寺には常盤が安産祈願した常盤地蔵が安置されている。
大徳寺を挟んで南の紫野下築山町には,民家の軒先にひっそりと常盤井の碑がある


○ 伏見常磐町付近
 国号24号線の御香宮を100m程下がると横断陸橋があり,伏見区常磐町と記載されている。かつてこの街道が拡幅される前,大和街道と呼ばれていたころ,ここに常盤の井戸があった。
 清水寺に篭り,夫義朝の武運長久を祈る常盤の願いも通じず義朝の訃報を知った常盤親子が,雪道を大和国宇陀郡龍門牧へ落ちていく途中この井戸で,お歯黒を塗った伝承があると常磐町ただ1軒の居住者辻井さんが話してくれた。昭和37年拡幅工事の結果井戸の框(かまち)は御香宮内の弁天社石橋として再利用され安住の地を見つけたようだ。
もう一つ常盤伝説が,JR桃山駅を東に行った京都橘高等学校に残る。この敷地はかつて光伝寺境内であったが,享保7年(江戸中期)の光伝寺縁起によると,当時義朝が病厚いおり,光伝寺に詣でた常盤のもとに夜中天女が現れ井戸の水を汲み常盤に授けたのですが,これによって義朝は全快したといわれ,昭和58年に移転するまで常盤化粧の井として使用していたといわれています。現在も京都橘高校の理解により,グランドすそに御影石に囲まれて保存されています。
 なお,東山区の本町11丁目にある宝樹寺には常盤薬師如来があり,また常盤御前雪除けの松があったといわれるが,今はない。

○ 右京区常盤馬塚町
 常盤の源光寺は京都六地蔵巡りの一つで,周山街道の入口にあたる。
他に山科四ノ宮徳林庵(東海道)
  桃山大善寺(奈良街道)
  上鳥羽恋塚浄禅寺(大坂街道)

  鞍馬口上善寺(鞍馬口街道)
  桂光林寺(山陰街道)に安置され,8月22,23日には多くの参拝者で賑わう。境内東南側に剃髪した常盤が,ここに隠棲したともいわれ石塔が残る。
 絶世の美女常盤と源氏一族最大のスーパースター義経の足跡は多く,常盤の段階で京都中を駆け巡ることとなった。彼女は,主人である皇后の呈子の気まぐれからではあるが,全国の美人千人の中から今のミスコンのように客観的に選ばれており,才色兼備の女性であったことが証明されている。これが沈着冷静な清盛をして彼女の色香に溺れ,スーパースター義経の悪役としてしか登場しない平家一門の悲哀へと導く。

 思うにこれらの足跡は,後世のきわめて平和だった時代に庶民に語り継がれたものが多く,社寺等の経営戦略も見え隠れはする。しかし,2歳の牛若は7歳まで,父義朝の仇敵やさらに一条家へと母常盤に同行するのだが,女性モラルが異なる時代とはいえ,周囲から望まれない御曹司として成長して行く人格形成上に大いなる影響を与えたものと思われる。 



◎ 鞍馬寺時代から旅立ちへ
 永万元年(
1165)7歳になった牛若は,鞍馬寺に稚児として預けられの身となるが,成長するに及び出生の秘密を知り,アンチ平家派の輩等と金売吉次の手配のもと奥州へと旅立つ。

○ 鞍馬寺には,牛若が遮那王といわれたころ過ごした寺で多くの足跡が残るが,あまりにも義経に好意的なものが多く,平家全盛の世,当時天台宗の鞍馬寺では,僧兵などの悪僧もいたことも想像され,決して安穏とはいえない日々だったことだろう。
仁王門をくぐり少し行くと,右手に鬼一法眼社がある。彼は遮那王に六韜三略(りくとうさんりゃく)という兵法を授けた武道の達人として祭られた入るが,書物によっ
て兵法の書は,鬼一法眼の娘と恋仲になった遮那王が盗んだとも云われている。また貴船との別れに近い鞍馬小学校法面にも鬼一法眼旧跡がある。
昼なお暗い樹林を行くと,鞍馬の火祭で知られる由岐神社を過ぎる。すると遮那王の守り本尊という川上地蔵尊が見えてくる。道を挟んで北には遮那王が住んだといわれる東光坊跡には義経公供養塔がひっそりと佇む。
本殿をさらに行くと,息継ぎの水,背比べ石,木の根道と盛沢山だ。天狗に誘われ夜毎東光坊阿闍梨(あじゃり)のもとを抜け出しこの辺で剣の修行をしたとか。
背比べ石から貴船側に少し下ると,遮那王尊をまつる義経堂がある。

○ 五条大橋西詰には,童謡歌から抜け出したような牛若丸と弁慶の人形があるが,この橋は秀吉の時代にこの位置に来たもので,当時は北にある松原橋を五条大橋といった。この松原橋こそがスーパースターと名脇役の出会いの地で,他に清水寺でも戦い,松原通を西に行った西洞院にある五条天神で盟約を結んだなど,多くの謂れがある。
 牛若生誕地近くに織田信長をまつる建勲神社があるが,当神社西参道(建勲通)の旧大宮には当時御所橋という石橋が架かっており,ここが牛若,弁慶の戦いの舞台であったとも云われ,御所橋がいつしか五条橋になったと地元ではいう。今は暗渠となっているが,上流の大徳寺東側には今も小川が残る。なお,写真左のパン屋は,屋号を「石橋」というそうな。
旧御所橋付近を北に行った米屋さんの中庭には,弁慶が道行く者から刀を奪うため,待っていたという弁慶腰掛石が伝わる。

○ 首途八幡宮は,西陣界隈で紹介

○ 右京区花園艮北(こんほく)町に「牛若丸首途之井」があり,この辺が吉次の屋敷跡との説もある。また近くに木辻通が通るが,吉次が木辻に訛ったとも云われる。

○ 地下鉄東西線蹴上駅からすぐ北側に疏水合流点があり,風光明媚な公園となっている。ここで吉次と奥州へ向かう義経は,騎馬武者の一群関原与一らに泥水を蹴り掛けられたことから争いとなり,義経は彼らの9人を切り捨てるが,自己の短慮を戒めた義経は後年ここに釈迦如来地蔵を安置した。この事件からこの地を「蹴上げ」という説もある。

○ 東海道を東に向かった一行は,山科の地で血のついた刀を洗ったといわれ,今でも血洗という町名が残る。また一息ついた義経が腰を掛けたといわれる石が京都薬科大学グランドに注連縄に囲まれて残る。

調査するにしたがい,あまりにも義経に関する史跡が多く,京都への凱旋,静御前とのロマンスなど一連で作成したかったのですが,一応前半ということで終了します。























































































































































































     

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