奥州平泉で22歳となった義経は,治承4年(1180)兄頼朝挙兵の報せに黄瀬川(静岡清水町)へと駆けつけ,兄弟涙の対面をする。寿永3年(1184)京都に進軍した義経は,宇治川の攻防で木曽義仲軍を壊滅京都を奪回した。同じく2月7日兵を返して一ノ谷に平家を破り,京都へ凱旋する。後日検非違使尉(判官)に任官され,面目をほどこす。
義経は,志半ばで都落ちした京の地に立ち,得意満面で所縁の地を踏みしめたことだろう。


 宇治川先陣争い
朝日将軍と称せられた木曽義仲も,飢饉続きの京では治安の維持が図れなかった。後白河法王から義仲打倒の院宣を手にした頼朝は,弟の範頼,義経を進発させる。
寿永3年(元暦元年1184)1月20日義経軍は,雪解け水で激流の宇治川に梶原景時,佐々木高綱達の活躍もあり義仲軍防衛線を粉砕,義仲は近江において露と消える。
合戦のあった宇治川の少し上流中ノ島に,桜木に囲まれて宇治川先陣の碑がある。頼朝挙兵の3ヶ月前に以仁王を担いで挙兵した源頼政は,この地で平家に囲まれ,西側の平等院内で切腹した。

 六条館
歴代の源氏館で,頼朝の代官としてここに住いする。広大な屋敷跡は今はなく,名水の左女牛井は,その後も残ったが,堀川通拡幅に伴い,今は歩道に碑が残るだけとなった。
源氏館に隣接して,源氏鎮守の若宮八幡宮があった。代々の源氏一族の帰依するところで,大いに繁栄するが,応仁の乱で焼失,秀吉により移転される。その後,地元民によりささやかに再興され,小さな社が塵一つなく佇む。今も神社西側の通りは若宮通という。
最終的に五条坂に移転した若宮八幡宮は,清水焼所縁の神社として毎年8月の陶器祭に賑わいをみせる。本殿には,忘れられたように足利義満寄進の手水鉢が置かれている。宮司の奥さんによると,鉢の底が不揃いに作られており,水面が複雑に乱反射して趣があり,義満遺愛の一品だろうとのことだった。


 為義墓
祖父の為義は,保元の乱で平忠正,息子の弓の名手為朝と宗徳上皇側へ参陣,息子の義朝と敵対するが,上皇の白川北殿(冷泉通熊野道に碑)に清盛,義朝軍に夜襲をかけられ敗れる。義朝の助命嘆願も空しく,義朝自ら父為義の処刑を行うこととなる。
七条通商店街の喧騒の中,山椒太夫有所縁の権現寺に眠る為義だが,当時は中央卸売市場内にあった。黒鉄門扉の笹竜胆ごしに墓石が垣間見える。義経もここに立ち,院政と武家興隆期の狭間で翻弄された祖父に手を合わせたことだろう。


 太刀掛の松
祖父為義所持の太刀「勝丸」を熊野別当湛増より献ぜられ,喜んだ義経は太刀を庭の松に掛けたといわれる。四条大宮の南東に30年ほど前まで熊野社があったというが,火災のため焼失し,今は大将軍ビルとなった。黒門通四条を下がると,下がり松町という町名が残る。その東隣は松本町という。地元の加藤修弘氏によれば,ここに太刀掛の松があって,枝が下がり松町に伸び,太刀を掛けたことに由来するという。

頼朝は,義経以上に少年時代から平家監視下で成長した過去を持ち,また平家全盛の世にあって関東御家人のニーズを的確に把握,画期的な武家による軍事政権をプランする。もう一つの王国,奥州の藤原秀衡は,奥州,関東,京都,平家の微妙な力関係の中で最も安全策として切り札の義経を登場させた。

しかし,奇襲戦法の天才義経は,平家打倒の目標に向かい周囲と軋轢を起こしてまでも純粋なまでに邁進する。その結果,パワーバランスは乱れて頼朝を頂点とする関東御家人の勢力が増大するのだが,キャスティングボードを握っていたはずの軍人義経には悲しいまでに処世術が欠落していた。


 兄弟
義経の兄弟達は,頼朝の挙兵に参加した者が他に3人いた。五男範頼は,義経と共に平家討伐のため壇ノ浦まで参戦し功があったが,建久4年(1193)伊豆で幽閉の後,殺害された。
常盤の産んだ3人兄弟のうち年長者の今若は,醍醐寺に入り悪禅師として豪気な性格であったという。全成と名乗った彼は,北条時政の娘を妻とし,頼朝とは妻同士が姉妹関係となるが,頼朝の死後謀反の疑いで殺された。
牛若のすぐ上の兄乙若は,八条宮円恵法親王の坊官となり義円と改めた。挙兵に駆けつけた彼は,尾張墨俣川で平家軍のため若くして戦死する。養和元年(1181)だった。
頼朝の猜疑心から,兄弟は全て不遇の最後を遂げる。頼朝の子息もまた,悲惨な死を迎え源氏直系は自滅へと歩を進める。
なお,冷徹な政治家頼朝といえども父義朝が,常盤を寵愛するあまり,母の由良御前が立腹し実家に帰ったことなども,少年時代の頼朝には心の傷になっていたものと想像される。


 女性達

建礼門院
壇ノ浦の合戦に敗れた平氏は,安徳天皇以下入水していくなか,建礼門院徳子はすんでの所を救出される。徳子は義経の妻蕨御前とは,従姉妹にあたる。義経と徳子が関係を持ったという資料はないが,江戸の川柳に「義経は母をされたで娘をし」というのがある。二人は後白川法皇のお気に入りで,顔見知りではあったと思われる。
建礼門院が,隠匿した大原寂光院には彼女の五輪塔はじめ後白河法王所縁の汀の桜などがあるが,残念ながら昨年5月9日に放火により本堂を焼失し,桜や松も一部被災した。
なお,建礼門院に仕えた女性に阿波内侍がいる。京の風物詩大原女の装束は,内侍が山に柴を刈りに行く姿を里人が真似たものといわれる。寂光院裏門の南,谷川を渡った山中に彼女の墓といわれる石塔がある。また,醍醐の一言寺は彼女の創建と伝えられ,本堂に像がある。

京御前
頼朝の家人河越太郎重頼の娘で,重頼と頼朝は乳母兄弟という関係から,京都での義経人気に不安を感じた頼朝が,親近者をあてがい動静を探らせたというところか。しかし,義経は京女が好みのようで,また,源氏館を土佐坊昌俊に夜襲された頃から,意識的に遠ざけたと思われる。

蕨御前
「平家にあらざれば人にあらず」と豪語した平時忠の娘で「北の方」と称される。時忠は,平家滅亡後流罪となりながらもしぶとく生き残り,大切な娘を値上がり必須の義経に差し出した。しかし,義経株は予想を裏切り,時忠の保険は効力を発揮することはなかった。しかし,蕨は最後まで義経と行動を共にした。奥州衣川の館を藤原泰衡に襲われ,子供と共に夫の手にかかり露と消え,義経もまた後を追い自害する。

静御前
スーパースター義経とのロマンスといえば静御前であろう。悲運の義経物語に清涼剤のように彩りを添え,かつ悲哀を増幅してやまない。
神泉苑で,雨乞い祈願のため,水干に立烏帽子という男装の麗人を装う静と義経は劇的な出会いをする。その後,頼朝の追手により吉野山で二人は今生の別れをする。義経と別れた静は,鎌倉鶴岡八幡宮若宮堂で舞を奉納する件は安宅の関と共に名場面だ。舞の3ヶ月後,静は義経忘れ形見の男児を出産するが,生れた嬰児は由比ヶ浜の藻屑と消える。京都に帰った静は,母の磯禅尼と嵯峨の草庵で念仏三昧の日を過し,悲しみのうちに世を去ったといわれる。
(京都歴史ロマン 一千年の恋人たち から)
今もって同名のアイドルタレントが人気を博したり,一般の女性にまでその名が波及しているところをみると,「シズカ」という響きに,しとやかで優しく美しい女性像をイメージするメカニズムが,日本人の遺伝子の中に遠い記憶として組み込まれているのかもしれない。



 家来に佐藤継信,忠信兄弟がいる。義経が頼朝の挙兵に奥州から馳せ参じる際に,藤原秀衡が推挙した者達で,義経家臣四天王としてよく期待に応えた。兄の継信は屋島で平教経の強弓から義経を守り戦死,弟の忠信は吉野山から義経を脱出させた後,四条室町で包囲され自決する。首実検で頼朝も一騎当千の勇士として彼を賞賛したという。東山は馬町の路地内に石塔が忘れられたように立つ。今は京都国立博物館に移されたが,十三重積塔も平泉に帰ることなく義経と日本を駆け抜けた佐藤兄弟を偲ぶ史跡である。


 後白河法王は,熊野神社や六条院の蓮光寺,長講堂をはじめ多くの足跡を残す。院政は二条,六条,高倉,安徳,後鳥羽天皇の5代,30年余に渡り,平氏,木曽義仲,義経を巧みに使い王朝権力の維持に努め,頼朝をして「日本一の大天狗」といわしめた。しかし,鎌倉政権が確立するなかで謀略が通用しなくなり,建礼門院を寂光院に訪ねたり,頼朝上洛時の対面には,激動の生涯とはいえ晩秋を感じる。建久3年失意の内に没する。院政時代には,大伽藍のあった三十三軒堂東側の法住寺陵に眠る。

余談 源氏滅亡後は,北条氏による執権政治となり武家政権は確立する。政治はきれい事ではないだろうが,北条政権は平氏のように公家化することなく,公明正大,質実剛健を目指した軍事政権であり,日本史上空前の陸軍を組織していた。このことが,約100年後の蒙古来襲に敢然と対処したことに繋がってゆく。歴史の分岐点で公家達のまじないや,祈祷のみが武器の政治体制でなくてよかったなあと思うのは私だけではないだろう。 ガンバレ日本!

         
たくまろの世界     京都歴史うぉっちんぐ     進む