京都東山を越えると山科盆地が広がる。近年田園地帯からベッドタウンとして発展,地下鉄も開通して繁華街と化してきた。僕も山科に居住して25年になるがその変化に驚く。
しかし,この山科に今から500年前の戦国時代,浄土真宗中興の祖,蓮如が築いた山科本願寺があり,日本屈指の都市があったんです。その遺跡がいくつか残っており,地中には多くの遺跡が眠っています。
蓮如
長禄元年(1457)本願寺第七代存如の死去によって,実弟との後継者争いを乗り越え43歳にして本願寺教団の法灯を掲げる。積極的な彼の布教活動は比叡山延暦寺等の怒りを買い,東山大谷(現知恩院付近)を破壊される。
近江に難を逃れた蓮如は,挫けることなく布教活動を展開,北陸吉崎御坊で本願寺教団組織を確立した後,文明10年(1478)捲土重来した彼は,山城国の山科の地に坊舎を建立する。蓮如64歳。
その山科本願寺は,山科盆地の中央に建設された平城で,土塁や堀をめぐらし,入り口の門付近には凹部等の工夫を凝らした防御機能を備えていた。平城では織田信長の安土城が代表的ですが,信長の築城のかなり以前に守備に膨大なコストがかかるものの,都市の繁栄には欠かせない平城を完成させたのです。
土塁の跡
山科中央公園の北東に残る土塁跡は有名だ。散歩道として整備されている。
国道1号線の丸山書店駐車場の北側に不自然な盛土が土塁の名残である。また,この北側にも2箇所の土塁が残り,これらの土塁跡で,現在の町名が分けられていることから最近まで残存していたことがうかがわれる。
西野山階町で敷地内北側に土塁を残す奥田方によると,土塁の西側は西野広見町で,奥田方南側の町境界付近に門跡があり,子供の頃は堀も残り,夏は足が着かないほど深い堀で水遊びをしたという。
しかし,水が涌き水でかなり冷たかったという。
国道1号線の西野道を南へ少し行くと,東側に新興住宅がある。つい最近まで通称「蛇山」といって雑木の茂った小山が残っていた。その南西側には現在駐車場となっているが,「オチリ池」があり,奥田方と同じく涌き水による堀跡があった。天文元年(1532)8月,山科本願寺は六角定頼,柳本信尭,法華宗徒の連合軍に攻撃を受け,奇襲攻撃の上落城するのだが,その場所がここではないかともいわれている。
僕は,山科川の国道1号線を下がった右岸堤防も土塁跡と思うんですがどうでしょうか。ご存知の方,お知らせください。
南殿付近
蓮如は,延徳元年(1489)本願寺留守職の座
を実如に譲り音羽伊勢宿町に南殿を建立,極楽浄土を模した庭園を造営し,隠居するどころか大阪石山に本願寺を建立する。蓮如は,吉崎以来水運の利便性をわかっていたのだろうか。
光照寺の南殿幼稚園の南側には,竹林に囲まれて土塁,堀跡が往時の面影を偲ばせる。
南殿の南西には蓮如縁の井戸が今日も守られている。
墳墓
中央公園の南側を東へ山科川を渡ると,蓮如上人の御廟がある。石山本願寺で病をえた蓮如は,山科へ帰り多くの信者に看取られ大往生したという。場所は南殿とも西宗寺ともいわれている。
衰退していた宗祖親鸞の教義を正し,戦乱の世に救われることのなかった悪人(意味は狩猟者,農民など)に極楽往生の道を説き,浄土真宗を日本最大の教団として組織した風雲児はここに眠る。
蓮如は,5人の女房を持ち,27人の子をもうけて,評価は様々だが,若くして実母との離別,継母との確執,困窮,妻子との死別,延暦寺からの迫害等にも挫けることなく戦乱の世に弱者たる悪人救済に全力を挙げた手腕は極めて客観的で,親鸞や日蓮のように画一的では大成しなかったことだろう。お文(御文章),女姓の救済等の柔軟性も彼の魅力のひとつだが,私には人間としての宗教家らしくない性格が,彼の一番の魅力ではなかったかと思う。