トサオ・テ、ニ、ハ、タ、惕ヲ


日本では,何処に行っても鳥居が身近にあるが,あまり深く考えたことはない。でもその起源や語源には多くの推論と考究があり定説もないのではないだろうか。また,書き方も天門,神門,華表,額木,助木など非常に多くありますます解らない。しかし,解らないなりに京都の鳥居を追っかけてみた。

 平安神宮
まずはここだろう。平安建都1100年を記念して,かつ明治28年,第4回内国博覧会を京都で行った年に建立された神社である。
建物は,大極殿を5/8の規模で再現したもので,鳥居は当時最大のものだった。100年前のこの付近は,畑地だったという。この鳥居は,コンクリート製で柱の根元に根巻があり,ここに扉戸がついている。この扉から内部へ入り笠木までいけるというが,当然のように締め切られている。しかし,あなたは鳥居付近で,人力車を引くお姉さんから「お兄さん,ご案内しましょか。」と声をかけられるかもしれない。
岡崎界隈は,京都市の所有地が多く京都会館,博物館など文化施設が集まり,鳥居はランドマークとなっている。


 伏見稲荷
伏見稲荷大社は,全国に3万を超える稲荷神社の総本社で,商売繁盛の出庶民の信仰を集める。稲荷は稲生(いねなり)の転化で,元は稲等の豊作信仰を起源とするが,平安京の住民に支えられ,稲作の他,鍛冶屋など職人の守り神,さらに江戸時代になると商売繁盛の神として民衆信仰は全国に及んだ。調べたことはないが,おそらく世界一鳥居の数が多い神社だろう。
稲荷山の三ヶ峰には,頂上まで信者の奉納した朱の鳥居が建ち並び,庶民信仰の熱さが伝わってくる。
稲荷の鳥居は,笠木と根巻を黒色に塗り,他は朱色か丹塗りとなっていて,平安神宮など最も多く見られる明神鳥居の進化版といったところか。紅黒の色彩によってさらに引き締まり,かつうっそうとしたした木立の中,鳥居のトンネルをくぐり続けることで心が洗われる気になるから不思議である。
京阪とJRに稲荷駅があり,門前の表裏参道には多くの店が並ぶ。



 野宮神社
嵯峨野の竹林に囲まれたて野宮神社はある。斎王に内定された未婚の内親王が,伊勢皇大神宮の奉仕に赴かれる前の一年間,清浄な地で潔斎のために籠られた場所という。中世以降久しく荒廃し,竹林中に小祠のみがあったらしいが明治6年村社となり,近年有志の手により社殿を修復された。
源氏物語の「賢木の巻」では,源氏と六条御息所の哀切な別れの場面として描かれている。境内の黒木の鳥居,くろもじの小柴垣は,源氏絵巻をしのばせるに足るが,どうも女性ファンをターゲットにしたような旗が多すぎる。謡曲「野宮」は世阿弥の作という。
黒木鳥居は,樹皮のついたままの鳥居で,極めて原始的で日本最古のものであろう。柱は掘建て式で土中に埋められている。黒木の由来は,クヌギからきたという説もある。最近まで材料のクヌギがなくてコンクリート製だったらしいが,高松市の会社が剣山山麓からクヌギの原木を切り出して防腐加工をしたものを奉納したという。
そういえば,8月16日の五山の送り火には,嵯峨野から鳥居型の送り火が見られるだろう。



 安井金毘羅宮
幕末京都ファンは,東山の護国神社参道の東大路を挟んだ西側の神社といえばすぐわかるだろう。源平勃興の頃,悲運の死を遂げた崇徳天皇の祟りを恐れて建立された神社がったが,応仁の乱など紆余曲折の末,元禄時代に当地に移建された。大正元年に奉納された鳥居は,住吉大社と同じく四角い柱を持つ角柱鳥居であり,裏面北柱に寄進者の記銘を一括し,南柱に「石匠 油小路魚棚北入 武輪角次郎」と明記されているのが面白い。
しかし,ここは縁結びと縁切りで知られている。境内にある石の穴に表から裏に抜けることで悪縁を切り,再度裏から表に帰ることで良縁を結ぶという石には,祈願者のお札が無数に貼付され石とは見えない有様である。また,絵馬にもお札にも良縁を願う文句や,悪縁を切りたいと願う悲壮な語句が見られる。21世紀は医学,科学,教育と飛躍的に進歩したというのに若者の願掛けが多いのには驚く現象である。
芸人の絵馬が多いことや,古くなった櫛を供養する「久志塚」などでも知られている。
神社周辺は,祇園の歓楽街でお茶屋をはじめ飲食店,ラブホテルが隣接する。男性一人歩きの場合は濃い~い女性に声をかけられるかも知れないが,ついて行くと次の朝,彼女のあごひげが伸びているかもしれない。



 三珍鳥居
それぞれに小さいもののユニークな鳥居がある。
 木嶋座天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)とは,蚕の社(かいこのやしろ)のことで,嵐電蚕の社駅の北側にある。神社名は東本殿の蚕養(こかい)神社に由来する。かなり古い神社で,養蚕機織の技術を伝えた秦氏が建立したものといわれ,今もって製糸業者の信仰が厚い。
ここの鳥居は,明神鳥居を三つ組み合わせた形式で,希望,信仰,愛を三つの門を表すとか,神の鎮座する場所,またシルクロードを経てユダヤの民が国旗をシンボルとして奉納したなど諸説あるが定かではない。
鳥居は元糺(もとただす)の池にあり,湧水の絶えることがなかったが,近年下水道工事の影響か水の出が悪くなったという。また,夏季土用丑の日に手足を浸すと諸病に効くといい老若男女で賑わうが,蚊に刺されることは保証できる。

 厳島神社
京都御苑には,明治維新まで皇族や公家屋敷があった。明治2年に天皇と公家達は,東京へ移住したために公家屋敷は次々と廃棄され現代の御苑が形成されるのだが,一部の池や鎮守社は残され市民や観光者の憩いの場となっている。
丸太町通の堺町御門を入ると,左側に九条家の勾玉の池に面して「拾翠亭」ある。この池には,島が浮かびそこに九条家の鎮守社である厳島神社がひっそりと建つ。この社は,平清盛が安芸の厳島神を勧進したものといわれ,最初は兵庫の築島(神戸)にあったが,母祇園女御のためにここに移したといわれる。
ここの鳥居は,笠木と島木が唐破風となっており,珍しいものである。よく見ると加工が荒々しく一部苔むしてもおり幾星霜が偲ばれる。
元治元年の禁門の変では,蛤御門に続き堺町御門でも長州久坂玄瑞率いる一隊が,九条家東側の鷹司邸にを中心として戦いを繰り広げ,京都街区の多くを焼失する惨事となったが,奇跡的に九条家は焼け残った。


 伴氏社
北野天満宮の一の鳥居をくぐった左側に菅原道真公自作と伝えられる十一面観音像を安置する本堂がある。東向きであるところから,東向観音堂と称されている。境内奥に,道真の母の廟塔といわれる高さ3mの五輪の石塔があり,忌明塔(いみあけとう)という。大伴家は大伴家持などを輩出した文人家系で,道真の母も優れた女性であったらしいが,道真28歳の時他界する。その他,謡曲で有名な源頼光が退治した土蜘蛛の塚がある。
天満宮境内に戻り,少し北に行くと神仏分離前に当寺のあった伴氏社の鳥居がある。この鳥居は,根元の亀腹に蓮弁が彫られており,珍しいものである。また,貫(横木の下方の木)が柱から出ておらず,野宮神社や伊勢神宮の鳥居と似ているが私には解らない。
しかし,日本で一番末社が多いと思われる天神さんの境内は,老若男女で喧騒が絶えないが,この鳥居をくぐると雑踏から抜け出たように感じるのは不思議である。

 追伸 私は変な宗教や極端な左右の思想は持ち合わせておりません。すこし歴史に興味があり,まずは京都に残る史跡から少しでもこの国を客観的に理解したい一市井人であることを申し添えておきます。

     
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