京都を代表する金閣寺は,臨済宗相国寺派の寺院で,正しくは北山鹿苑寺といい,応永4年(1397年)足利義満が,西園寺家の山荘を譲り受けて造営した北山殿で,義満没後,その遺言により禅寺とし,義満の法号「鹿苑院殿」から金閣寺と名づけ,夢窓疎石を追請開山とする。
応仁の乱により金閣寺を残し,堂宇のほとんどを焼失するが,豊臣秀吉,徳川家康らの帰依を受けた西笑承兌や鳳林承章などが住持となり,堂宇を暫時復興した。
金閣寺は三層の殿閣で応永5年の竣工,もともと釈迦の骨をまつった舎利殿のことだが,2・3層内外にに金箔を押している事から,室町期より「金閣」と呼ばれ,昭和25年(1950)7月2日放火によって焼失。同30年に復元再興した。
三島由紀夫の小説が,この事件を主題に昭和31年「新潮」に連載され,美に対する人間の心理変化を告白体で描写したことから世間の注目を集め,観光寺院として現在に至っている。また,銀閣,飛雲閣とともに京都三閣といわれている。
参道の北に神仏習合名残の手水石が,横たわっている。かってはこの敷地にも神社があったが,廃仏毀釈時代にここを去って手水石のみが残ったとも,また金閣寺造営に際し,ここにあった敷地神社(わら天神)の名残とも伝えられている。
受付前のイチイガシは,京都市の天然記念物に指定されており,現在の境内が整備された330年ほど前に植えられたものと考えられるが,普通イチイガシ
は境内には植栽される事がないため,かつて存在していた樫林の残存木とも思われる。樹高19.5m,胸高幹周4.93mに達し,幹の基部は根上がりして板根状になっている。
受付東側には,浄蔵貴所の墓搭がある。彼は三好浄蔵ともいい吉野大峯の修験者で,一条戻り橋で父親を蘇らしたとか,傾いた法観寺(八坂の搭)を法力で直したとかエピソードの多い人物です。祇園祭の山伏山の神体は,浄蔵の大峯入りをあらわしたものという。
方丈には非公開ながら重要文化財として,伊藤若沖筆の大書院障壁画(50面),絹本著色足利義満像(二幅)などを所蔵,また方丈南の庭は相阿弥の作庭といわれ,東側には後水尾天皇ゆかりの椿がある。金閣寺初層(法水院)は寝殿造り,2層(潮音洞)は武家造り,3層(究竟頂)は中国風の禅宗仏殿造りと三つの様式を調和させた室町期の代表的建築物となっている。屋根は椹板の柿葺となっており,中央に鳳凰が輝く。三層南面額には一休さんの父後小松天皇により「究竟頂」と記されていて,最上の意味があるという。
三層楼の楠一枚板は,見事で下鳥羽から持ってきたものといわれている。
昭和62年(1987年)に漆の塗替,金箔の張替,天井画と義満像の復元を行なう。方丈の北には京都三松の一つ「陸舟の松」があり,義満が自分で植えたものと伝えられている。
庭園は,国の特別史跡・特別名勝となっており,金閣寺を中心とする浄土式庭園だが,金閣寺の南に広がる鏡湖池を中心とした池泉回遊式庭園でもある。
池の中央部には,葦原島(蓬莱島)があり,赤松石・畠山石・細川石・夜泊石などの名石を池中に配す。特別史跡・特別名勝は,全国で6ヶ所,京都には他に銀閣寺,醍醐寺がある。
以前は大変荒れていた時期もあったが,近年整備され京都を代表する観光寺院となっている。
妙音堂
金閣の東北側にある妙音堂は,元西園寺家の本尊に由来するものだが,現在は金閣寺が誇る防災設備の一つポンプ庫であり,無粋な防災機械も景観と調和すればこうなる。
銀河泉(岩下水下流,山裾の泉)は,義満がお茶の水に使ったといわれている。巌下水(金閣の北裾にある湧水)は,手を清めたといわれている。龍門瀑(岩下水の上流にある滝)には,鯉が滝を登ると龍になることにちなみ「鯉魚石」が置かれている。
安民沢(龍門瀑の上にある池)の中島には,西園寺家ゆかりの「白蛇の塚」がある。西園寺家では,代々正妻を娶らず家にまつられている弁財天女が婦人とされ,身の回りの世話をする女性を置くならわしがあったといわれる。
北方山上には,金森宗和好みの茶席「夕佳亭」があり,夕日に映える金閣寺が殊に佳いとの命名です。今の建物は明治7年(1874年)の再建で,入り母屋造茅葺の田舎風情の茶室となっている。 正面が「南天の床柱」,右は「萩の違棚」,中央の古木が「鶯宿梅」で知られる。
また,茶席前の石灯篭,富士形の手水鉢は義政が愛用したものといわれている。
貴人榻は,身分の高い人の椅子のこと。
夕佳亭から裏門に至る間に生身の不動明王がある。天正年間に宇喜田秀家が再建したもので,岩窟内に安置する本尊石造不動明王(鎌倉時代)は,生身で摂津口より歩いてこられたと伝えられています。 古来有験の霊仏として足利氏の頃には特に信仰されていました。
ご近所散策
東に法音寺という小さな寺がある。8月16日の精霊送り日には,左大文字の種火はこの寺から保存会の皆さんにより金閣寺北の左大文字山へと運ばれ,8時20分合図とともに点火され,京都の夜を彩る。
金閣寺の東側通は,鏡石街道と呼ばれる。北へ1キロほど歩くと通りの由来となった岩がある。昔は鏡のようにものが映っていたそうで,義経も己の姿を映したとも云われ,牛が驚いき立ち止まったとも云う。このため,燻してようやく牛が驚かなくなったと云う謂れがある。