京都への道は,六口や七口とか云われていますが,その道中には地蔵堂や分岐には道標が置かれていました。
現在の道路標識など比べるべきもないほどの道しるべですが,ほとんどが町の有志によって設置されていることが目に付きます。
 ここでは,京都市によって史跡で登録文化財とされている道標を紹介します。


○ 大原口(今出川寺町東入)

 江戸時代のこの地は大原口といわれる重要な辻でした。
 北は,出町を経て大原から若狭街道へ 東は,鴨川を渡り山中越えで近江へ 南,西は,京都市街へつながる交通の拠点となっており,慶応4年(1868)戊辰4月に地元の有志19名によって建てられたと銘記されている。
 因みにこの当時の日本では1月3日に鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へと連なる激動の時代で,4月といえば西郷隆盛と勝海舟が江戸城開城をめぐり交渉のクライマックスを迎える頃で,京都町衆の奥深さというか,どんな状況でも時の流れは複雑ながらとめどなく流れていくことを実感する道しるべではある。

○ 北白川西町(今出川山中越交差)

 この地は,近江から山中越え(志賀越え)で白川村をへて京都へ入る街道で,また東には銀閣寺,南は黒谷,南禅寺,祇園,西は金閣寺,北野天神への交差点となっている。
 設置は,嘉永2年(1849)己酉(きゆう)の年で,パリではフランス革命の混乱,アメリカはゴールドラッシュが始まる。その後アメリカ大陸西岸に達したこの国は太平洋を西進,ハワイやフィリピン,グアムを侵略して,日露戦争で薄氷の勝利を得た日本と軋轢を起こすのだが,それはさておきこの道標設置の4年後にペリー艦隊が来日する。

 なお,道標西隣に2体の地蔵が安置されているが,幕末当時京都に名を馳せた侠客の会津小鉄はこの付近を縄張りとし,ここに賭場を開いていたという。小鉄の本名上坂仙吉の寄贈した地蔵右の花受けには上坂と瓢箪に似た家紋(代紋?)が銘記されている。

 また,今出川通を渡った北側には子安観世音石仏があり,白川女は花を供えお参りした後,京へ商いに出たといい,今でも地蔵盆には白川女により御詠歌が営まれる。石仏前に佇むと白手拭いの姉さん被り,白腰巻き,白脚絆(きゃはん)に友禅のタスキ掛け,頭上箕(みの)に花を乗せて「はぁな いりまへんかー」と白川女が現れるような…

○ 吉田本町(東大路通東一条交差)

 宝永6年(1709)己丑(きちゅう)11月に設置と銘記された道標は,300年近くの間時代を見つめてきたのか破損が目立つ。京都大学本部構内によって分断されているが,かつては白川道から鴨川荒神橋を渡り荒神口への街道と南北の通りの交差点であった。
 道標設置の前年3月には,三条油小路からの出火で京都中心部大半が焼失しており,近江方面からここへ辿り着いた旅人の目に入った京の景色はいかばかりであったことか。

 なお,荒神橋には,橋南に車道(くるまみち)が残っている。車道とは荷車から木製橋を守るために荷車には橋の通行を禁じて,川中を通すための荷車専用道で,川中から両橋詰めに登るループ状の坂道が特徴,鴨川ではここと三条大橋西詰のみに残存している。

○ 三条白川橋

 延宝6年(1678)3月に設置された京都で一番古い道標で,三条通の拡幅工事で多少動いてはいるものの300年以上この地に立ちつづけている道標で,数年前まで走っていた路面電車のブレーキシュー粉(鉄粉)のためか,やや褐色ながら風格があり周囲に溶け込んでいて,夜になると,白川橋に灯るガス灯に浮かぶ道標は,白川の川面が良く似合う。
 東面に「左は,知恩院,祇園,清水」と現代人でも読めるかなで銘記されており,旅人に市街に入らなくても京都名所へのショートカットを示しています。
 この当時は,治安も良く江戸,浪花,京で町人が台頭してくる頃で,京では,後水尾院を中心とした王朝文化と西陣など裕福な町人により雅の中に空前の反映を迎える。当時の人口30万人(現在148万人)
 今年(01年)6月21日の新聞によると,車両の事故によって道標が破損したとの記事を見て3日後に現場に行って見た。道標は無残にも地上のすぐ上で破損していた。京都市文化財係に問い合わせると,当係で保管中で,修復については方法,予算等で検討中とのことでした。伊勢参宮名所図会(1797年)にも絵がかれ,旧東海道の終点近く白川橋で300年佇む道しるべは,多くの上京者や旅立つ者たちを見てきたにちがいない。
 2001年の12月に京都市によって無事補修されました。メデタシ メデタシ!!

  

○ 御陵中内町(旧三条五条別れ)

 宝永4年(1707)に沢村道範により建てられた道標で,東海道と渋谷越(現五条東山トンネル付近)から五条大橋へと分岐する三叉路五条別れに佇む。
 この三叉路を左へ行くと五条大橋で,そこから東西本願寺,六条大仏,今熊野や清水寺への近道が示されており,当時京都大仏は健在で観光名所だったことが伺えるが,相次ぐ火災等のためか現在は国立博物館などの官庁建物となっている。
 開発著しい山科地域だが,この付近には街道筋の風情が残り,出窓や虫子窓の町家も点在している。
また五条別れの街道幅の狭さに驚く。

都への道しるべ































































































































       

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