御土居

この場所は、御土居の北東隅にあたる重要な部分であり、1930年(昭和5)7月市内に残る他7ヶ所とともに、わが国における都市計画の歴史を知るうえで重要な遺跡として国の史跡に指定された。現在では9ケ所の御土居が史跡となっている。
御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、1591年(天正19)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。
東は鴨川、北は鷹ケ峰、西は紙星川、南は九条あたりに沿って、延長22、5kmに及び要所には七口を設け、洛外との出入りロとし、鞍馬口、丹波ロなどの地名はこの七口の名残です。
江戸時代になると天下泰平の世が続き御土居は次第に無用の存在となり、市街地が洛外に広がるにつれて、次々取り壊されていった。
高麗美術館

高麗美術館は1988年10月に開館。日本で唯一朝鮮美術の専門美術館及び研究所として今年開館30周年を迎えた。
創設者鄭詔文氏(チョン・ジョムン 1918~1989)の遺した高麗、李朝を中心とするコレクションの寄贈を受け開館。元京大教授・上田正昭氏、作家・司馬遼太郎氏などの協力を得る。
大型の石像は、王の陵墓や貴族墓を守る朝鮮時代の石大です。剣を持つのが武官、笏(やOを持つのが文官で墓の前々墓に通じる参道の両側に羊、馬、虎などの石獣とともに対になって配置された。
神光院

真言宗単立寺院。放光山と号する。
もとは、上賀茂神社の境内にあったのを鎌倉初期の1217年(建保5)社務松下能久か一夜本宮に参寵したとき霊光があって、その映ったところに一宇を建立すべしとの神託をうけ、この地に堂宇を建てたのが起こりと伝える。
その後、醍醐三宝院の兼帯所(兼任)となり、明治維新後には一時廃寺となっていたが近年再興された。本堂に安置する本尊弘法大師像は大師自ら刻んだと伝えている。
東寺、仁和寺と並んで京都三大弘法の一つとされている。
蓮月尼旧栖茶所
太田垣蓮月所縁の茶所で、平屋建ての小さい建物で4畳半と3畳の台所からなっている。土間に窯を築き73歳から85歳で生涯を閉じるまで、歌と陶器作りに余生をこの茶所で過ごした。
蓮月は法名で本名は誠(のぶ)。1791年(寛政3)、京都に生まれ、知恩院寺侍の大田垣家の養女となる。実父は伊勢の津藩主分家の藤堂金七郎と伝える。母は花街・三本木の女性で生後すぐ母と引き離され養女にだされた。
8、9歳ごろには、生母の亀岡にある縁故で亀岡城に勤仕し、和歌、諸教養のほか武術、歌舞を身につけている。結婚は18歳の時と28歳の時と二度結婚する伝子どもに先立たれたり、離縁、夫に先立たれたりと酷薄な運命に翻弄され、33歳の時剃髪し、蓮月と名乗る。
蓮月は、自活の道を求めて、陶器を作るようになり、作品の一つー一つに自作の歌を釘で彫り付けて売り出し蓮月焼きと称して人気が出て、偽物が出回るほどになった。
名があがるにつれて、彼女を訪れる客が目増しに増えてきた。彼女は、その応対の煩わしさから逃れるために頻繁に引越しをするようになった。引っ越しは生涯に30回を超えるというほど。
一方で多くの文人たち、勤王の志士たちとの交流を生んだ。
又、こんな逸話がある。 明治元年、徳川幕府を倒して明治新政府ができたが旧幕府勢力はこれに服さず、戊辰戦争が起る。
幕軍打倒をめざす新政府軍が威武堂々と三条大橋にさしかかった時、一人の年老いた尼憎がその行く手に立った。「何の用でごわす」と指揮をとる西郷隆盛がたずねると「この度のご出陣のお祝いに、腰折れ和歌を差し上げたいと存じます」と、一葉の短冊を手渡した。それには「仇味方勝ち負くるも哀れなりおなじ御国(みくに)の人と思えば]とある。同胞相争う内戦のむなしさを説く二の歌に隆盛は大いに感じ入ったという。この尼僧が蓮月である。
大将軍神社

西賀茂の産土神。
創祀は明らかでないが、推古天皇17年(609)瓦屋寺の鎮守社として二の地に創建されたと伝える。磐長姫命(いわながひめのみこと)他4柱を祀る。
本殿は、上賀茂神社の片岡社旧社殿を寛永年間の1628-1636年の間に移建された。桓武天皇が王城鎮護の為に京都の四方に大将軍社を建てたもので、西北の隅に当たるので、隅が須美となって元は須美社と称した。上・下賀茂神社の中で最古の遺構である。
角社瓦窯跡(角社町)
大将軍神社地の一隅から良質の粘土が出るので、この辺り了瓦を焼いたと思われる。 1971年(昭和46)の発掘調査で角牡瓦窯跡が明らかになった
西賀茂一帯は良質の製瓦用粘土を産出し飛鳥時代から平安時代の須恵器や、瓦の窯跡が広く分布している。平安時代には、官に所属した瓦窯として、平安宮や京の造営のために大量の瓦を供給していたことが大内裏や東西両寺址より発見された互によって明らかである。この付近から、瓦窯跡7ヶ所、須恵器窯跡3ヶ所が発掘調査により明らかになった。
西方寺

来迎山と号す浄土宗の寺。承和年間(834〜848)に慈覚大師円仁が創建した。もとは、天台山門派に属したが正和年間(1312〜1316)に道空上人が、浄土宗に改め、以後六斎念仏の寺として知られる。
毎年8月16日の五山送り大の一つ船影万燈寵が終了後、境内で六斎念仏が行われる。
五山送り火について、この行事は誰がいつごろ始めたものか疑問のあるところですが、残念ながらそれぞれ俗説はあるものの確実なことはわかっていない。送り火そのものは、冥府に帰る精霊を送るという意味を持つ盆行事の一つで、この行事が一般に広く行われるようになったのは、仏教が庶民の間に深く浸透した室町時代以降といわれている。個々の送り火については俗説があるが、船形万燈寵送り火については、慈党大師円仁が唐留学の帰路暴風雨にあい、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて無事帰朝できたことから、その船を形どって万燈寵送り火を始めたと伝えるが、この円仁の故事が想起とされたとしても創始の時期を1100年前に遡ることには無理がある。
小谷墓地には大田垣蓮月尼、北大路魯山人、多侮雅(おおのうめわか)の墓がある。
※ 多 梅雅・・・「鉄道唱歌」の作曲者。
1900年(明治33)
リチャード・ボンソンビー(本尊美・利茶道)の碑 イギリス人
皇室制度や神道史の研究家として知られる。
1904年(明治37)香港総督秘書として訪日。 東京・成蹊学園で英語教師(大正8年から3年間) 京都・宗一中(現洛北高校)教師 上賀茂で死去 60才 遺骨は本匡|イギリスに埋葬
正伝寺

吉祥山 正伝護囚禅寺。臨済宗南禅寺派
鎌倉時代(1268年・文永5)、東厳慧安(とうがんえあん)禅師が、けじめ今出川烏丸に創建。宋の几竜普寧(ごっあんふねい)禅師が慧安に与えた「正伝」の寺額を以って寺名にしたと言われる。その後、寺は天台寺門との争いに破壊されたのを1282年(弘安5)賀茂社の祠宮森経久の尽力によって現在の地に再興された。 後醍醐天皇の勅願所となり、足利義満ち祈願所とし寺運も盛んであったが、応仁の兵火によって多くの塔順子院を焼亡レ明治維新後は全く衰微するに至った。現在は本堂(まF丈)と庫裏および鐘楼を残才に過ぎない。
本堂は伏見城にあった遺構の御成殿を移建して本堂とした。襖絵は狩野山楽の数少ない作品の内の傑作とされる。
方丈の広縁の天井は開か原の戦いの直前、伏見城に立で寵もった徳片方の鳥居彦工門元忠以下1200名余がその落城の際、割腹し果てた廊下の板を天井としたもの。最近、血液学の権威(古畑種基博士)の研究によって3銘年以前の人間の血こんであると証明された。
庭園は[獅子の児渡し]の庭園といわれ、比叡山を借景とし江戸時代の枯山水庭園。
霊源寺

船山の東麓にあり、清涼山と号する臨済宗の単立寺院。
1636年(寛永13)後永尾天皇が一絲文守(いっしぶんじゅ 仏頂国師)を請じて一一宇を建立。霊源庵と称されたのが当寺の起こりと伝える。
上皇は親しく臨幸され、庵を改めて寺として「清涼山霊源寺」とし宸翰勅額を下賜された。
1671年(寛文11)清涼殿の用材を賜り仏殿を建立。霊元法皇は勅願所とした。以来歴代皇室の厚い帰依を受けた。
現在の仏殿は単層、寄棟造り、瓦葺起り屋根。堂内に本尊釈迦如来像、後水足上皇、開山像を安置している。
開山一絲文守は岩倉家の出身であったことから、同家と関係が深く、岩倉尚具は明暦年間(1655-58)山県大弐、藤井右門らと朝権回復を図って失敗し、当寺に摯居。さらに1862年(文久2)には岩倉具視が当寺で出家、約1ヵ月隠棲した。
境内には、尚具の墓、具視の歯牙塚があり、明治維新史蹟の一つである。
醍醐の森 (恵観山荘跡)
後水尾天皇の弟で、明正、後光明両天皇の摂政関白を務めた一条昭良(兼淑カネハル)の山荘跡。恵観は昭良が剃髪した後の号である。
一条昭良は関白一条内基の養子となり1641年(寛永18)頃、この地に山荘を営んだ。書院、数奇屋があり、苑池を隔てて茶室があった、二の山荘は、昭良の次男冬基の興しか「醍醐家」に伝領された。
明治、大正の経済変動等によって、世人の視野から外れ、その存在さえも知られず殆んど顧みるものがないほど荒れ放題となったのを1959年(昭和34)、茶道浙偏流・家元山田宗囲師によって鎌倉に移築された。
桂離宮や修学院離宮などとともに、寛永文化の代表的遺構であった。鎌倉では昨年から「一条恵観山荘」の一般公開をしている。
醍醐の森瓦窯跡
昭和48年、道路工事に際して平窯が見つかった