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このウォークの地図

嵯峨野の秋を歩く

角倉一族の栄華の跡を追い、その奥津城(おくつき)を訪ねる



  1 角倉了以屋敷址・角倉稲荷神社

現在は「公立学校共済組合嵐山保養所・花のいえ」となっている付近一帯が、角倉了以の屋敷址と伝えられている。そのことを明確に証明する物はほとんど残されていないが、この付近一帯が「角倉町」という地名として今に受け継がれている事こそがその有力な証拠であろう。
また嵯峨角倉町にひっそりと角倉稲荷が鎮座する。










  2 大堰川・戸無瀬(となせ)滝を遠望



桂川(丹波)→保津川(保津峡)→大堰川(渡月橋付近まで)→桂川(渡月橋より下流)→淀川(三川合流大阪湾へ) 

我々が日常的に眺めている日本を代表する名勝「嵐山」の景観は、明治期以降になって大きく変化していったと考えられている。すなわち江戸時代前期に描かれた『洛外図』によれば、嵐山の中腹に大きく三段に落ちる滝(戸無瀬の滝)が描かれている。
そして、それ以降に描かれた江戸時代における各種の絵図類にも「戸無瀬の滝」は頻繁に登場しており、江戸時代から明治の後半くらい頃までは、この「戸無瀬の滝」と呼ばれている滝の姿が大堰川の対岸からも雄大に眺望されて、この「嵐山」という天下の景勝地を象徴する名所になっていたのである。










  3 嵐山公園、角倉了以銅像


初代の像は、大正元年に建立されたが、残念ながらその像は第二次世界大戦末期に金属供出され台座のみが残されていた。
しかし、昭和53年、京都市の立誠学区(りっせいがっく)の有志の方々が角倉了以翁銅像保存会を作り、この二代目「了以翁像」を建立した。
題字は時の法務大臣林田由紀夫氏の筆である。
像は嵐山の大悲閣・千光寺にある翁の坐像をモデルにし、それを立像に改め、大きな石の上に石割斧を杖にして雄々しく立っている。









  4 嵐山公園展望台



1606(慶長11)年、保津川開削に成功した嵯峨の土倉業、角倉了以が慶長19年この地に大悲閣を建立して二尊院の道空了椿を奉じて中興の開山とした。
そして了以は、1614(慶長19)712日、この大悲閣千光寺にて亡くなった。









  5 塵劫記の碑

『塵劫記』は、江戸時代の初期、1627(寛永4)年に刊行された代表的な初級の和算書であり、江戸期を経て明治以降も読まれ続けたという時代を超えた和算のベストセラーであった。 著者は、角倉一族に連なる「吉田光由」である。
そして、この『塵劫記』によって、そろばんをつかえる庶民が圧倒的に増え、江戸時代の中期までには、多くの日本人が九九の暗算が出来、そろばんを使えるようになっていたと伝えられている。








  6 二尊院、角倉一族の奥津城参拝

江戸時代、京都で「京の三長者」と呼ばれて富み栄えていた商人がいた。即ち、「後藤家」「茶屋家」そして、「角倉家」の三家である。
角倉家は、本姓を「吉田」といい、もともとは医術をもって家業とする家であった。 吉田家は「角倉」を屋号として、嵯峨において土倉(どそう)をいとなみ、宗臨の子である宗忠(そうちゅう)の代に飛躍的に発展し、嵯峨土倉としての一族は、京でも屈指の豪商への道を進むのである。

我々が「角倉」という江戸時代の豪商の事を考える時に、ほとんどの人は、
先ず、偉大であった「角倉了以」を挙げる。
しかし、角倉一族として考える時、この偉大な父親である了以の蔭に隠れるようにして、父親と共にほとんどの事業に実務者として参加し、了以の業績に多大なる貢献をしていた嫡男の「素庵」の存在を決して忘れてはならない。
そして和算の先駆者として江戸時代を通じてのベストセラーであり、寺子屋での教科書でもあった『塵劫記』を著した「吉田光由」の貢献も大きい。
・・・合掌









風光明媚な嵯峨野で爽やかな時間を過ごしました。

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