法然院の名前

善気山万無教寺と号する浄土宗の単独寺院。鎌倉時代の初め,法然上人が弟子の住蓮・安楽とともに六時礼讃(阿弥陀仏を昼夜に六回拝むお勤め)をした草庵。寛永年間(1621~1644)道念上人が法然院と称したのを,知恩院の万無・忍徴両上人が念仏道場として再興したのが起こりです。本堂には,阿弥陀如来を本尊として,仏前の須弥壇には散華と称し,常に四季の花が撒かれています。境内の墓地には,谷崎潤一郎,九鬼周造,河上肇らの多くの文人が眠っています。
安楽寺

法然上人の弟子住蓮・安楽両上人このあたりに鹿ケ谷草庵を結んだことに始まる浄土宗の単独寺院で,住蓮山と号します。後鳥羽上皇の女房に松虫姫と鈴虫姫がおられたが,虚飾に満ちた御所での生活に苦悩し,後鳥羽上皇が熊野参拝中に住蓮・安楽両上人のもとで落飾し尼となりましたが,上皇の知るところとなり,激怒した上皇により両上人は斬首,法然上人は讃岐へ流罪となりました。江戸中期になり,両上人の菩提を弔うために等寺院は建立されました。
毎年7月25日に,鹿ケ谷カボチャを参拝者に振る舞い,中風よけの行事が行われる。
冷泉天皇陵

平安中期(950~1011)の第63代天皇で,父は村上天皇,母は藤原安子。
冷泉天皇は,異常な行動が目立ち,安和2年(969)左大臣源高明の娘婿為平親王を皇位につけようとする陰謀ありとして源高明は左遷されますが,この事件を契機に,藤原忠平の嫡流摂関家が政治の実権を握ることとなった。
霊鑑寺

臨済宗南禅寺派の尼門関寺院,山号は円城山,谷御所,鹿ケ谷比丘尼御所ともいわれます。承応3(1654)年,後水尾天皇の皇女多利宮(たりのみや)が天台宗寺院として近隣に創建し,改宗後も後西天皇の旧殿を賜って現在地に移転,その後も明治まで皇女が住持を継承しました。
後水尾天皇遺愛の日光椿の他,多数の名椿が植えられています。
御所の段町(鹿ケ谷山荘)

楼門の滝の下流に付近は談合谷といい,俊寛僧都がらが平家打倒の企てて密議をこらした鹿ケ谷山荘があったといわれます。
目に余る平氏の横暴に,後白河法皇をはじめ,上皇の側近,僧都,武士も密議に加わりましたが,平氏の知るところとなり,側近の藤原成経,平康頼,俊寛は鬼界ヶ島へ流罪となりました。
大豊神社

祭神は少彦名命(すくなひこのみこと),応仁天皇,菅原道真。当初は背後の椿ヶ峰山中にあったが,寛仁年間(1017~1021)現在地に移された。大宝大明神とも呼ばれ,法然院,南禅寺一帯の産土神として信仰を集めています。
狛鼠は,大国主命を助けたという故事にちなみ,境内の大国社の前に狛犬代わりに鎮座,また日吉社の狛猿,愛宕社の狛鷹は,それぞれの神の御使いとして有名です。
高雲寺

霊芝山と号し,臨済宗南禅寺派に属する皇室ゆかりの寺です。当初は摂津は四天王寺の近くにあありましたが,寛文4年(1664)後水尾天皇,中宮東福門院(家康の孫娘和子)が南禅寺の英中禅師に深く帰依して,この地に再興したもの。本尊は東福門院の釈迦如来と観音菩薩を安置しており,元久邇宮家の菩提寺となっています。庭園は小川治兵衛の作庭です。
熊野若王子神社

栄暦元年(1160)に後白河法皇が,熊野権現を観衆勧請し,祈願所として創建された天台宗寺院で,正東山と号しました。社名は天照大神の別称若一王子ちなんでいます。花の名所としてして知られましたが,明治の神仏分離によって廃寺となり,熊野若王子神社として残りました。祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと),いざなぎ,いざなみの尊,天照大神の4神を祀り,熊野神社,今熊野神社と共に京都三熊野神社といわれています。
背後の若王子山頂には,同志社英学校の創始者,新島襄と妻の八重の墓あります。
平成24年5月13日(日)京都を代表するコースを多くの参加者とともに歩きました。