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このウォークの地図

戦争遺跡「伏見」を歩く

明治29年(1896)、陸軍は仮想敵国ロシアを見据えて軍備拡張をはかり、六師団を十二師団とした。日露戦争開始後、十二師団を編成し直し、十六師団とした。戦後、明治41年(1908)、この内の一つ「第十六師団」が現聖母学園に駐屯した。軍都伏見の面影の名残を追って深草方面を中心に日本陸軍の施設の跡を探りました。



  陸軍兵器廠京都支廠跡(警察学校)

明治維新後、新政府は、薩摩、長州、土佐の三藩の武士を中核とした軍隊を創設、しかし、大村益次郎は国民皆兵を唱えた。そして明治2年(1869)の新政府に拠る官制改革で兵部省が創設された時、陸軍構想の拠点を西日本に置いた。大村益次郎は先の戊辰戦争に参謀役として参加、大阪、淀川筋、京都、伏見、宇治方面に精通していた。又、明治新政府に対する反抗勢力は東北方面ではなく西日本から起こり、新政府は大陸方面に経済、軍事を求めていくと判断していた。その為に建軍構想で京都、大阪が重要視されていく。明治4年(1871)政府は全国に四つの鎮台(明治政府の陸軍軍団・後の師団)を置いた。此れが実質的な日本陸軍の創設となった。明治6年(1873)に六鎮台に編成され、徴兵令が発布された。他方京都は、大阪鎮台の管轄に入り、伏見奉行所跡には、大津歩兵第九連隊の分営(大阪鎮台第一分営)が入った。当時の人々は此れを「陸軍屯所」や「鎮台」と呼んだ。この分営が設置された時が、伏見と陸軍の関係の始まりとなる。そして明治21年(1888)鎮台は「師団」と改められ、それぞれ番号を決め東京を第一、仙台を第二、名古屋を第三、大阪を第四、広島を第五、熊本を第六師団として、京都は、大阪鎮台、第四師団区に入った。
現警察学校が第十六師団の武器弾薬類の保管所として、厳重に警備を徹底していた。現在龍谷大学と警察学校の間に細い通路があり、両側はコンクリートの高い塀である。この北側の高い塀の警察学校の中に数年前まで、古めかしい木造二階建ての瓦屋根、東西に長い建物で、壁は横板張り、軍隊の特徴である細長い窓があった。しかし今は取り壊され新しい建物が建っているが、当時の写真が残っているのみである。(今回は写真なし!)


  陸軍深草練兵場(西浦町)

部隊での訓練はそれぞれの部隊内の広場で行われたが、大規模な訓練は、現在の伏見区西浦町一帯に練兵場が設けられた。その範囲は、東西は師団街道から国道24号線の間約700m、南北は名神高速道路と龍谷大学の間の約800mであった。(800×700=560、000㎡)
練兵場の東南角には、鉄道の引き込み線があり、軍馬や大砲の乗降車訓練が行われていた。又、当初の大正
13年(1924)頃には、滑走路も在り、同年には、飛行機が北側の兵器の火薬庫付近に墜落して大騒ぎとなったことがあった。又、正午になると大砲を撃って時報の代わりとした午砲台があった。
この様に練兵場は、大正、昭和と使われていたが、昭和
20年(1945)の敗戦間近には、兵隊の数も少なく、訓練に使用する武器も無く、代用の木製の銃で僅かに各部隊の広場で行い、この練兵場での訓練は行われず、敗戦後、練兵場の土地は元の地主に返されたが数十年を経ていた為、元の地主も判明しにくくなり、区画整理も為されず、現在もそのままで住宅等になっている。(ということで写真なし)


  軍道と道路標識

伏見には、第十六師団が設置される以前から、琵琶湖疏水と京阪電鉄が通っていた。そこで師団街道の両側に並んだ陸軍の各部隊や施設を有機的に繋ぐ為に、この疏水と京阪電鉄の線路を高架で越える道路を造る必要があった。
「第一軍道」は龍谷大学の南に接する東西の道路、龍谷大学南東角に立つ標識には、「師団街道・第一軍道」と今も軍都時代の地名と名称が使われている。
「第二軍道」は、藤森ダイエーの北出口に面する短い東西の道路であるが、此れが
旧師団司令部(現聖母学園)に直結する重要な軍道である。この第二軍道が疏水を越える高架橋は今も「師団橋」と呼ばれ、その橋脚には「★」のマークが入っている。この西側には「西師団橋」が京阪電鉄を超えて架かっている。「第三軍道」は、現青少年科学センターの東側から国立病院の北側を通って山科に抜ける道路である。これ等の軍道の架橋工事は、全て、伏見奉行所跡に駐屯していた「工兵第十六大隊」が工兵隊の演習の為の教材として建設・架橋した。その完成を祝って「明治四一年(1908)三月竣工・工兵第十六大隊架設」と刻まれた自然石があるが、戦後、破壊され残骸が残っているが、字は判読出来ない。又、各軍道には、鉄の鎖や鉄棒で繋がった花崗岩製の石柱が並んでおり今も部分的に残っている個所がある。


  野砲第二十二連隊跡(京都青少年科学センター)

国立病院前の道(第三軍道)を西へ、疏水、京阪電鉄を高架橋で超えて師団街道を超えると、西に進む幅広い道路がある。此処が野砲第二十二連隊の正面前広場であった。その突き当たり付近に門柱が立ち、衛兵詰所があり兵舎が並んでいた。今はその面影も無いが、青風幼稚園の中に砲兵二連隊と刻んだ石碑が残る。園長さんの話によると以前は兵舎を幼稚園舎として使っていたそうであるが、今はこの石碑のみである。







  輜重兵第十六連隊

この野砲隊の営門跡から南へ約500m程行くと、京都教育大学付属高校がある。此処が「輜重第十六大隊」跡である。輜重部隊とは、弾薬、食糧、武器等を輸送する任務の部隊で、直接の戦闘には参加しないが非常に重要な部隊である。今ここには、旧陸軍の施設はほとんど残っていないが、付属高校正門前の西側には、当時の歩哨舎とレンガ造りの門柱が残っている。又、学校の門の西側に「京都教育大学環境教育センター」があるが、その南側に古びた壁に蔦の生茂った古い建物が残っている。此れが当時の廐舎(馬屋)である。作家の「水上勉」も此処に入隊して、後、小説で当時兵隊は、馬がはるかに大切に扱われていたと書いている。


  藤森神社

直違橋(すじかいばし)通よりやや東、深草鳥居崎町に鎮座する深草一帯の産土神社で、稲荷、御香宮神社などと共に崇敬されている神社である。
社伝に拠ると、神功皇后(御香宮神社と同じ祭神)が朝鮮半島に出兵、後、凱旋帰国して、使用した旗と武器を納めたのが、当社の起こりとされる。その時に納めた旗の塚(旗塚)が今も本殿の東側に在る。当社の祭神は、①神功皇后、②応神天皇(神功皇后と仲哀天皇との子)③竹内宿禰(紀氏の先祖)、④スサノオの尊(八坂神社の祭神)、⑤ヤマトタケルの尊、⑥別雷命(上賀茂神社の祭神)⑦仁徳天皇(応神天皇の子)の七座を本殿に合祀している。更に、室町期の永享10年(1438)藤尾社(現稲荷神社内)の祭神⑧天武天皇(?~686・在位673~686)と子の⑨舎人親王を合祀、文明2年(1470)には本町16丁目に在った塚本社の祭神⑩井上内親王(聖武天皇の娘・光仁天皇の皇后)⑪早良親王(桓武天皇の弟)⑫伊予親王(桓武天皇の第三子・墓は伏見区巨幡墓)を合祀した。各の如く、12座を合祀するのは、特異で、室町末期の吉田神社の禰宜「吉田兼右」が著した「諸社根元記」でも藤森縁起を書き、山崎闇斎は寛文11年(1671)に「藤森弓兵政所記」(ゆずえまんどころき)では、当社を武人の神を祀るとした。
それらの結果、当社は武人、戦闘の神社として崇められ、敗戦(
昭和20年・1945年)までは、軍人の武運長久と戦勝を祈る神社であった。其の為、出征兵士の家族達は熱烈に子や夫、兄弟の無事を願った。
現在は、12座の内の舎人親王(とねり)を表に出し日本書記編集者としての地位を重視、学問上達に重点を置いている。


  歩兵第九連隊跡(京都教育大学)
   
歩兵第九連隊記念碑(藤森神社北側)

歩兵連隊とは、師団の中核となるもので、約4000人の兵士を擁し、各師団には四個連隊(後に三個連隊と変更)が置かれた。第十六師団の場合、日中戦争開始時点では、深草に歩兵第九連隊、福知山に第二十連隊、奈良に第三十八連隊、津(久居)に第三十三連隊があった。歩兵第九連隊は、現在の京都教育大学のキャンパスになっているが、大学のグラウンドは、過つての第九連隊の練兵場であり、キヤンパス各地に残る大木も軍隊当時のものである。
京都教育大学西門は、歩兵第九連隊の当時の門の位置と同じである。この門を入ると上記の練兵場跡が見える。又、校内の南東隅には、「まなびの森ミュージアム」として木造洋風の建物が残っており、窓などから陸軍建物の名残を感じる。此れが歩兵第九連隊区司令部で将校クラブでもあった。今は一部改造されて使用されている様であ
る。
又、藤森神社北側の京都教育大学西門に進む間の数十メートルの道は、過つて此処に陸軍のテントが張られ、召集兵は家族に送られ、入隊していった。このテントが民間人としての生活を捨て、軍人となり、家族との別離となる場所であった。又、面会に来た家族とこのテントの中で会い、別れを惜しんだ。この道の北側から直違橋(すじかいばし)通に掛けて兵隊向けの食料品店や日用雑貨の店、軍服、軍靴、軍隊用本屋等が並び軍一色の町並を呈していた。名神高速道路南に「軍人湯」の看板が今もある。
このテントが張られていた藤森神社境内の北側に「歩兵第九連隊」の記念碑がある。此れは明治百年を期して建てられた。そして伏見で編成された各部隊の戦績が刻まれている。
又、大正
7年(1916)夏の米価の高騰により起った「米騒動」で、812日、下賀茂神社に通じる出町橋で米価高騰に苦しんだ京都市民の行動に対して武力鎮圧に出たのが第十六師団の兵達であった。この時の師団長が皇族出身の「梨本宮殿下」である。


  陸軍衛戍病院跡(現国立病院機構京都医療センター)

衛戍病院とは駐屯する陸軍の病院のことで、平時は、病気の兵隊達の治療、特に陸軍では当時結核性の病気が多く、その発見と治療、隔離が大きな仕事であった。
しかし、日中戦争(昭和
12年・1937年)が始まると多くの傷病兵が送られてきた。その傷病兵を昭和天皇の香淳皇后が、昭和16年(1941)に見舞われたのを記念する行啓記念碑がある。この碑は、戦争で多くの傷病兵が名誉の負傷をしたことを説明した記念碑である。又、「陸軍病院」と書かれた石碑もある。これ等はひっそりと裏庭に隠れるように残っている。只、皇后の行啓記念碑は、敗戦の時に、此処に入院していた兵士達が怒りの中で土中に埋めたが後、掘り起こされ此処に再建された逸話が残る。此処には平成3年(1991)春まで兵舎の一部が残っていたが今はその面影もない。






  騎兵第二十連隊跡の記念碑(京都市立深草中学校)

直違橋(すじかいばし)通から名神高架下の南側を東に進み深草小学校を越えた住宅地の隅に記念碑が立っている。この碑から南東一帯が「騎兵第二十連隊」跡である。今は陸軍時代の資料は残っていない。騎兵第二十連隊は、第十六師団の編成(明治41年・1908年)とともに姫路で編成され、日露戦争では中国東北部(旧満州)に出動、帰還後、第十六師団の所在地、深草に駐屯。昭和期には、装甲車部隊を伴う捜索隊に編成され第十六連隊に所属し太平洋戦初戦で活躍したがフイリピンルソン島で惨敗して敗戦を向えた。












  第十六師団司令部跡(現聖母女学院)

聖母女学院には、二十世紀早々からの陸軍の歩みを物語る史料が残る。第十六師団司令部本館として赤褐色で温もりのあるレンガ造りに白い花崗岩の細い帯で引き締めたこの建物は、とても優雅に見える。二階建ての屋根に煙突が突き出てアクセントを付けているなど旧日本陸軍の建物と云うよりも博物館と呼んだ方が似合いそうである。
古い建築物は京都では珍しくはないが、明治末期のレンガ建築で、これだけ無傷で現在も利用されているものは少ない。
内部も見事で、廊下も部屋も天井が高く、広い階段の手すりも全て木製で、支柱の一本一本が見事に彫られている。二階正面が司令部の部屋で、今もほぼそのままで使用されている。
聖母女学院が昭和
24年(1949)大阪から移転してきた時、正面上部の「菊」のマークが取り除かれ、現在のマークとなった。第十六師団で、師団長を務めた有名人物では、昭和12年(1937)就任の第十四代師団長の「中島今朝吾」氏がいる。南京事件(昭和12年・1937年)の責任者とされていた。第十六代師団長に「石原芫璽」氏がいる。彼は満州事変(昭和6年・1931年)の首謀者とされている。最後の師団長「牧野四郎」氏はフイリピンのレイテ島で連合軍と戦い昭和20年(1945)3月頃には第十六師団は壊滅した。


平成23年11月13日(日)このコースを歩きました。
いつものコース、史跡とは少し趣が異なりましたが多くの参加者がありました。
洛南支部の柔軟さ、チャレンジ精神に感謝感謝です。(*^。^*)





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