>
ウォークの地図

出水の七不思議と北野七保を訪ねる

出水という地名は、特に湧き水や浸水の歴史を反映しています。出水通と烏丸通との交差点付近で湧 き水があり、道路に浸水することがありました。

  玉蔵院

かつてこの寺に、「幽霊の掛け軸」があり、円山応挙の作品と言われ、描かれた遊女が幽霊に見えるとい う掛け軸がありました。忽然と掛け軸が行方不明となり、数十年前に別の寺院(建仁寺塔頭大統 院(だいとういん))で発見されたといいますが、住職の話ではそれは別物のようです。


  華光寺

(通称:出水の毘沙門さま) 日蓮宗、山号:蓮金山、本尊:十界曼荼羅 天正11(1583)年、妙顕寺12世の日堯が自らの隠居所として創建。創建後に豊臣秀吉から伏 見城に安置されていた平安後期の作とされる毘沙門天像が寄進(鞍馬寺の像と同木同作と伝わ る)され、江戸時代以降この毘沙門天像は開運厄除けの神として信仰を集めました。梵鐘は正応 元(1288)年の作で丹州厳辺寺のもの。撞座の蓮華文以外の装飾がない美しい鐘で、正應元年の 「年」は即天文字「」です。山門は寺院としては珍しい六足門。 時雨松:雨が降っていないのに、時雨のごとく枝から水がしたたる松<今はその子孫>、鐘楼 に枯死した時雨松の根が残っています。 五色椿:五色の花を咲かせるという珍しい椿の木<今はその子孫>


  光清寺

浮かれ猫の絵馬:弁天堂に掲げられた絵馬の猫が、近くの遊郭から三味線の音が聞こえると女 性に化けて踊り出したという伝説。それを見た人たちは大騒ぎとなり、住職は法力で猫を絵馬に 封じ込めました。するとその日の夜遅く、住職の枕元に正装をした武士が現れ、「私は絵馬の猫の 化身だが、絵馬に封じ込められて、とても不自由な思いをしている。これからは、世間を騒がす ようなことはしないので、どうか許してもらいたい」と懇願しました。哀れに思った住職が戒め を解くと、それからは、浮かれ猫の姿を見たものは誰もいなかったということです。


  五劫院

享保9年(1724)に僧喚誉が開祖。火事によって平野村(現平野神社付近)から当地に移転し てきました。通常非公開。
くぐり戸の寝釈迦:門のくぐり戸(小袖門)の上にある框(かまち)の木目が、西枕で横たわ る釈迦の姿に見えるということです。


  観音寺

百叩きの門:1623年に伏見城の牢獄門を移築した楠の一枚板で作られた高さ約2.5mの扉。罪 人が釈放される際に二度と牢獄に戻ってこないよう門の前で百回叩いてから外に出したことから 百叩きの門と呼ばれます。夜な夜な人のうめき声が聞こえ、門扉に取りついた怨霊の声という噂 がありました。


  極楽寺

境内の金谷水(きんこくすい)は1587年の北野大茶会で豊臣秀吉が使用したと伝わります。勝 井戸(かちいど)とも呼ばれ、飲むと勝負事に勝つと言われています。
三つ門(両小袖門):通常1つの小袖門(くぐり戸)が左右2つある珍しい構造。


  地福寺

弘仁年間(810-824年)に嵯峨天皇の勅許により、僧真済が葛野郡安井村に創建しました。享 保年間、道空が時の関白鷹司公の病気平癒に際して大いに霊験を発揮し、それにより享保12 (1727)年に現在地に移転しています。以来、道空の念持仏であった薬師如来が本尊となり、現 在に至っています。<京都十二薬師第五番札所>
日限(ひぎり)薬師: 小穴のあいた石に五色の糸を通して奉納し、49日間祈願すると耳の聞こ えないのが治るとされています。


  阿弥陀寺六之保

大宰府に左遷され、延喜3年(903年)2月25日、59歳で失意のうちに死去した菅原道真公の 亡骸は、牛車に乗せられて大宰府を後にしました。そして、牛が動かなくなった所に葬るように という道真公の遺言にしたがって埋葬されました。それが、現在の太宰府天満宮の本殿があると ころです。
天神道下ノ下立売下ルの華開院の前にあって、阿弥陀寺と号しました。寛保3年(1743)に真言 宗に売却され殊尊院と改称したが、明治初期に廃仏毀釈のために廃寺となったといわれます。


  五之保満願寺(玉房稲荷)

祠の右側に「五之保天満宮」とあります。この神宮寺であった満願寺は天神道下ノ下立売上ル 西側、行衛町の現在玉房稲荷を祀るところにありましたが、元禄15年(1702)日蓮宗に売却さ れ、翌年洛東の岡崎村に移転しました。岡崎の満願寺では境内にある鎮守の文子天神社で菅公 を祀っています。


  北野天満宮御旅所

北野天満宮の創建前にはこの地に「神楽岡」と呼ばれた大きな森があり、森の鎮守として大巳 貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られていたといいます。 947 年に北野天満宮が創建されて初めて神輿がこの地に渡御し、この地が御旅所に定められまし た。
その後、祭神菅原道真を合祀して「御輿岡神社」と称され、北野天満宮の境外末社となりま した。毎年ずいき祭り期間中は当初に3基の鳳輦とずいき神輿が駐輦し、八乙女田舞や献茶祭な どの祭典行事が行われます。


  四之保新長谷寺

下立売通西大路西入ル西ノ京中保町にあって、新長谷寺といいました。堂を捨衣堂と称して菅 公自作と伝える枕箱観世音像を安置していましたが、元文5年(1740)廃社になりました。尊像は 木製の脇立四体で三重厨子に入り、小厨子は高さ5寸(約15p)、廻り9寸8分(約30p)で、 北野社宝物殿に収蔵されています。中保町の地名は七保社のうち真中の四番目の保であったこと に由来しています。
旧地には威徳水(当時、病気平癒の御利益がある水として人々よりの信仰を集めた井戸)が残 っていましたが、2017〜18年頃に埋められました。


  西ノ京瑞饋神輿保存会

ずいき神輿は現在その継承を西ノ京瑞饋神輿保存会が行っています。京都市無形民俗文化財で あるずいき神輿の各部品は、そのほとんどが保存会会員の畑で栽培した農作物を使って飾られて います。神輿づくりは、9月1日の千日紅摘みから始まります。奉納までの1箇月間、この集会 所では保存会の方々の作業が続きます。「真紅」には赤白の千日紅で「天満宮」の文字を浮かび上 がらせ、欄間(らんま)、桂馬(けいま)、腰板(こしいた)と呼ばれる神輿の側面を飾る部品 は、会員が趣向を凝らし、歴史上のお話や流行の題材を取り入れながら、毎年新しく作ります。


  一之保安楽寺

延喜5年(905)、筑紫から菅原道真の霊を迎えて祀り、安楽寺天満宮が創始されました。京都で 菅公を祀った最初の社です。明治元年に寺号を廃止し、明治6年(1873)7月に北野天満宮境内に 移転しましたが、その後再び天神道通仁和寺街道下ル西側の旧蹟(当地)に分祀されています。 安楽寺地蔵堂に安置していた矢止地蔵は、ヤニドメ地蔵ともいい、眼病祈願の信仰がありまし たが、今は附近の弘誓寺に移されています。


  三之保長宝寺

境内にある長宝堂という御堂は、かつて北野七保の一つに数えられた三之保社の長宝寺に由来 し、長宝堂には長宝寺の寺額が掛っています。長宝寺は一条通紙屋川の東畔にあって、菅原道真 祖先の土師氏の祖の野見宿称を祀っていましたが、廃仏毀釈で、明治6年(1873)社殿は北野社境 内へ移転し、長宝堂は成願寺に移されました。本尊であった十一面観音は5尺ほどで、菅公が梅 ノ木で作られたものとありますが、仏像の行方は不明です。


  北野天満宮

北野天満宮は、天暦元年(947)、この地に菅原道真公(菅公)を御祭神に祀る皇城鎮護の社と して建てられた、全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社です。入試合格・学業成就・文化 芸能・災難厄除祈願のお社として幅広く信仰されています。境内楼門内西側に、明治初期の廃仏 毀釈で移された一之保神社(L一之保安楽寺)と野見宿称神社(M三之保長宝寺)があり、境内 北門近くに旧址(E)から移された文子天満宮があります。




北野七保

Copyright © 2000-2009 KYOTO SHISEKIGUIDE VOLUNTEER KYOKAI and KAMO SQUARE. All Rights Reserved.