尾上松之助像

歌舞伎役者で映画俳優。本名は中村 鶴三(なかむら かくぞう) 晩年は、学校や福祉事業に巨額の寄付を投じ、京都府へ1万3千5百円を寄付して、その資金で出世長屋と呼ばれる府営住宅を建設した。
1966年(昭和41年)、老朽化した出世長屋を府が処分し民間に払い下げ、その財源で建て直したが、取り潰しで松之助の功績が消滅するのを惜しんだ当時の蜷川虎三知事が、上京区の鴨川公園(葵公園とも)にその余財で松之助の胸像を建立した。
長徳寺

裏寺町から1672年(寛文12年)に現在の場所に移った。江戸時代初期の1605年(慶長10年)、長徳寺は摂津溝口領主・長谷川宗仁(はせがわそうにん)が万愚牛廊を開山として裏寺町に創建した。現在は浄土宗寺院。門前の早咲きのオカメ桜が有名。
常林寺

寛文11年(1671年)1月15日、梨木町からの出火で焼失。同年8月29日に現在地へ移転。
豊臣秀吉の都市政策によって寺町通荒神口東入ル南側、御土居のそばに寺地が割り当てられ建立された。
世継子育地蔵と「萩の寺」が有名。幕末には勝海舟が常宿にしていた。
正定院

1693年(元禄6年)に現在の場所に移った。浄土院寺院。子供を背負ったちご地蔵が愛らしい。
絵師・曾我蕭白(そがしょうはく)や箏曲家・幾山検校(いくやまけんぎょう)の墓がある。
光福寺

干菜山(ほしなざん)斎教院安養殿光福寺と号する浄土宗知恩院派の寺院、俗に「ほしな寺」と呼ばれている。天正10年(1582年)に、月空宗心(げっくうそうしん)よって現在の地に移された。道空は、六斎念仏を世に広めたことで知られ、その由緒をもって柏原天皇(室町時代中期)から六斎念仏総本寺の勅号を賜った。
文禄2年(1593年)に豊臣秀吉が、鷹狩の途次に当寺に立ち寄った時、住職宗心が干菜(ほしな)を献じたことにより、秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられたといわれている。
本満寺

応永17年(1410年)に本国寺から分立し、応仁の乱で堺へ。天正18年(1590年)頃、豊臣秀吉が京都の寺院を寺町通り沿いに強制移転させた時期に本満寺も移建されたとする説もある。日蓮宗十六本山の一つ。
徳川吉宗の病気平癒を祈願したことによって幕府の祈願所となった。焼失と再建の繰り返し、本堂は1911年(明治44年)2月8日にも焼失し、1927年(昭和2年)に再建された。春の枝垂れ桜で有名。
仏陀寺

朱雀上皇ゆかりの寺。1591年(天正19年)による豊臣秀吉の土塁・御土居(おどい)の築造に伴って現在の場所に移った。普段は拝観謝絶。門前にある王城地祭地蔵は安産祈願で親しまれている。
十念寺

1536年(天文5年)に焼失、1591年(天正18年)現在地に移っている。西山浄土宗。本堂は1993年に建立。墓所:足利義教(6代将軍)、曲直瀬道三(室町時代の医師)や海北友雪など。拝観不可。
阿弥陀寺

信長の墓所で有名。天文24年(1555年)に浄土宗の玉誉清玉が、近江国坂本に創建したのが当寺の始まりである。その後、清玉は自身と縁のある織田信長からの帰依を得ると、上京の今出川大宮に寺基を移す。天正10年(1582年)6月2日に信長が本能寺の変で自害すると、清玉は自ら合戦中の本能寺に赴いて信長の遺灰を持ち帰り、墓を築いたとされている。後に織田信忠の遺骨も二条新御所より拾い集め、信長の墓の横にその墓を作ったという。さらに本能寺の変によって討死した名の分からぬ多数の犠牲者も当寺に葬って供養したという。天正13年(1585年)に豊臣秀吉の京都改造により現在地に移転した。
出雲寺

史跡の説明10
西園寺

この寺は、1224年(元仁元年)西園寺公経が北山の山荘(現在の鹿苑寺の辺り)に真言寺院として創建[1]したことに始まる。公家である西園寺家は公経が鎌倉幕府と関係があったことから鎌倉時代には隆盛したが、鎌倉幕府が滅亡するに及び衰退。1554年(天文23年)、縁誉が中興して浄土宗に改め、1590年(天正18年)現在の寺地に移された。現在の本堂は、天明の大火(1788)後の再建で、正面には、明治・大正・昭和の三時代に亘って政界で活躍した元総理大臣西園寺公望(きんもち)の筆による寺号の額を掲げている。公望は立命館大学を創始したことでも知られている。御苑の中に西園寺邸跡がある。
天寧寺

額縁寺として有名。天寧寺(てんねいじ)は、京都市北区にある曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来、山号は萬松山(ばんしょうざん)である。江戸時代の茶人金森宗和の墓がある。天正年間(1573 - 1592)に、現在地に移転されたと伝えられる。その後、天明の大火により堂宇を焼失したが、本堂は文化9年(1812年)に、書院は天保14年(1842年)に再建された。
上善寺

貞観5年(863年)円仁により天台密教の道場として創建された。文禄3年(1594年)豊臣秀吉の京都改造に伴い、現在の寺町に寺域を移し浄土宗に改宗。境内には「鞍馬口地蔵」を祀る六角堂があり、「六地蔵めぐり」の一つとして広く信仰を集めている。もとの場所(千本今出川)に上善寺が再建されている。
閑臥庵

鎮宅さん。閑臥庵に勧請された鎮宅霊符神は平安時代の陰陽師・安倍晴明が円融天皇の命によって造らせ、貴船神社・奥の院に御所の守護神として祀らせたもの。鎮宅霊符神の「鎮宅」には家宅の災禍を祓い鎮める意味がある。
尾形光琳宅跡

この石標は,晩年新町二条へ移り住むまで居を構えた跡を示すものであるが,最近の資料によれば烏丸鞍馬口附近と推定されている。実家は呉服商の雁金屋、弟に陶芸作家の尾形乾山がいる。
上御霊神社

桓武天皇の時代、各地で疫病が流行していた。これは御霊の祟りであるとして、延暦13年(794年)5月、早良親王(崇道天皇)の御霊をこの地に祀ったのが始めだとされる。また、この地には平安遷都以前から出雲氏の氏寺・上出雲寺があり、当社はその鎮守社であったともされる。室町時代の文正2年(1467年)1月18日には、失脚した管領の畠山政長が当社境内の森に布陣し、そこに畠山義就が攻め寄せて上御霊神社の戦いが行われた。この戦いは応仁の乱の前哨戦となったことから当地は「応仁の乱発祥の地」とされる。
毎年5月に見ごろアヤメ科の「イチハツ」が有名。
猿田彦神社

猿田彦神がニニギミコトの先導をしたということから、みちひらき・交通安全・方位除けの神社として信仰されている。かつては広大な境内で,将軍家より神事料として小山郷柏木田が寄進されていました。応仁の乱以後も度々火災に遭い,現在の地に移されたのは寛政5年(1793)。
桓武天皇はこの神の託宣によって平安遷都を決意され,延暦12年(793)勅願によって社殿を造営されたと伝えている。永徳3年(1383)の造営には勅使が差遣され,足利将軍義満も奉幣し,御神楽が奉納された。5月1日に猿田彦の神面行列がある。
秋空の中、約5㎞ほどをご参加の120人の方とお寺三昧のガイドでした。