四条烏丸〜東洞院通錦〜四条堺町〜四条寺町〜因幡薬師〜富小路五条〜枳穀邸、他
![]() ![]() (四条烏丸) 幕末、四条烏丸西北には鴻池屋敷があった。 新選組局長近藤勇は、江戸でニセ虎徹を手に入れていたが、京都の鴻池で本物を手に入れる。刀は使い手との相性で決まるものである。 ![]() ![]() (東洞院通錦上ル) 絵師四条円山派の祖・松村呉春の物語。呉春と師匠の与謝蕪村の娘をヨコ糸に生涯を描く。また、円山応挙の出会いにより絵師として自己を確立する。 ![]() ![]() (東洞院通錦下ル) 島津久光の活躍を描く。幕政改革のために上洛する時の様々な事蹟と久光と西郷の確執を描く。西郷隆盛が久光の上洛を非難し、京錦藩邸のことを言う場面がある。 ![]() (四条堺町) 円山応挙の弟子、長沢蘆雪の死にまつわる話を描き、師匠応挙と自分の絵の考えが違うことから起こる葛藤を描く。 ![]() (四条寺町下ル) 新選組の新入り隊士の活躍を描く。(創作話)
![]() (枳穀邸) 坂本竜馬が大政奉還(船中八策)の根回しに、幕府の要人である永井尚志へ面会を求めに枳穀邸に来る場面。 |
![]() 大雲院は織田信長、信忠親子を弔うために創建された。信長の墓のほかに石川五右衛門の墓もある。 ![]() 本能寺で信長とともに戦死した村井貞勝の墓がある。 ![]() 平重盛が建てた東山灯篭堂の後身と伝えられる。 境内に重盛の碑がある。 ![]() ![]() 真言宗仏光寺派大本山。 親鸞が山科に興隆正法寺としたのが起こり。 寺名は、盗まれ捨てられた本尊阿弥陀像が、その夜に後醍醐天皇の部屋に光を差し込ませたため、怪しんだ天皇が光を辿り、二条河原で像をみつけたことから仏光寺と改められた。 秀吉の大仏建立の際に現在地に移った。 ![]() 天誅組の幹部。片目を失い、のち天誅組騒動で目を負傷し完全に失明戦死した。 ![]() 文久3年7月23日、尊攘派浪人に斬られた貿易商人。 国内物産を買い集め長崎・横浜に出荷し巨利を得、関西地方の物価が上がると恨みをかい尊攘派に狙われ斬られた。首は三条河原に晒され、罪状書には「この男から借用の金子はいっさい返却におよばず。」と書かれていた。
![]() 京七名水。縁切り井戸としても知られ、縁を切りたい人にこの水を飲ませば縁が切れるという俗信がある。その昔、嫉妬深い女が男を呪って丑みつ参りをしたが、ついに気疲れてここに死んだという。死後もなおその怨霊がたたるというので鉄輪をもって塚をきづきこれを祭ったといわれる。今は塚はなく井戸だけが残っている。一説には女性が住んでいたところの井戸といい、また身投げをした井戸ともいう。 縁切り伝説では縁起が悪いということで、稲荷大明神を祭り、縁結び、夫婦和合、福徳円満の神として命婦神社と称し現在に至る。
![]() 795年に藤原冬嗣が筑前より宗像三神を勧請、平安京の官設市場の守護神とされた。 平安時代から、皇子・皇女誕生の折、ここの天之真名井の水を産湯に用いたという。 また、生後50日目の子供に、この社の餅を与える五十日餅の習慣があり、安徳天皇もその儀式を行なったとされる。 女性の守り神とされ、子授け安産、女人厄除けの神社で歴代の皇后のご祈願とされている。 当時は堀川七条にあったが、豊臣秀吉により現在地に遷座した。
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